昨日はとても忙しかったので、配信できませんでした。お詫びに今日はサービスで3連打です。
シリーズ 外科医のための感染症 コラム CRPはどこまで役に立つか
1万円を大金ととるか、はした金ととるか、、、これは諸説あることでしょう。大金と捉える人もいるでしょうし、はした金と考える人もいるでしょう。
問題は、大金、はした金のカテゴリーには客観的、絶対的な基準がないということです。それは主観の問題です。
また、9999円までがはした金、1万円になると大金、といった「境界線」も存在しません。お金のような連続変数を二元論で語るのは意味がないことなのですね。
CRPも同じです。
CRP(C反応性タンパク)は長く論争の的になってきました。とくにアメリカではCRPをあまり使わないこともあって、「CRPを使うべき」「使わない」論争は、日米感染症業界代理戦争の様相を呈していたのです。
しかし、CRPについて「役に立つ」「立たない」という二元論的な論争は不毛です。
CRPは連続変数です。「陽性」「陰性」と分けること「そのもの」が不適切です。身長を「高い」「低い」と分けるのが不適切なように。
その数値の解釈には主観が入ります。10以上を高いと考える人もいれば、20以上をそうだと思う人もいるでしょう。CRPという数値そのものは客観的で価値中立的なデータに過ぎませんが、そのデータの解釈には必ず主観が入っているのです。
しかし、その主観が主観であると全面的に受け入れたとしても、やはりその主観は連続的に解釈するより他ありません。例えば、「CRPが10以上の場合はやはり有意にとらねばならない」という「主観」があったとしましょう。しかし、その人物は、例えばCRPが9.9だったとき、完全に無視できるでしょうか。おそらくはできないと思います。では、9.8だったら?
連続変数とはこういうものです。仮に主観がその意味を認める境界線があったとしても、その境界線のすぐ下にある数値をその主観は無視できません。1万円以上を大金と捉える主観が、9999円を無視できないように。それは、まるでゼノンのアキレスと亀の逸話のように、接近していっては離れてしまう、面倒くさい代物なのです。
よって、「CRPがいくら以上だったら、重要視する」的な言説そのものが意味を持たないという理解の方が妥当です。CRPの数値は最初からいくら以上、いくら以下という境界線を与えず、そのつど判断するのが妥当だと岩田は思います。
今日のランチに1万円、、、これはわりと豪華だと思いませんか。今月の生活費1万円、、、、ちょっとつらくはないでしょうか。同じ1万円でも、使われ方によって価値が違う。使われ方とは文脈と言い換えてもよい。数値は、実はとても文脈依存的なのです。
昨日2だったCRPが今朝は18になっている、、、これは何か「ヤバいこと」が起きていることを強く示唆しています。IE治療中の患者、昨日19だったCRPが今日は18、、、これは治療の成功を示唆しているとは限らず、かといって治療の失敗とも呼べず、そもそも18と19じゃ、ほとんどおんなじじゃん、、、というわけで、この場合は「患者を診て判断」ということになり、CRPの値そのものは判断には寄与しません。おととい25だった肺炎患者のCRPが今朝は18、、、これは治療が上手くいっていることを強く示唆しています。
このように、「CRPが18」といっても文脈依存的であり、一意的に18という数字を(文脈を無視して)判断することはできないのです)。
診断におけるCRPもやはり文脈依存的です。その文脈は「検査前確率」と言い換えてもよいでしょう。結局、CRPを活かすも殺すも我々の臨床判断次第なのです。
ベイズの定理は客観的病気の診断に主観を加味することができる、という定理でした。CRPもまた、そのように判断され、「どのくらい使えるか」という文脈(検査前確率)との抱き合わせによってのみ、価値が生じてくるのです。そして、残念なことにCRPは多くの場合そのような臨床判断とは無関係に「陽性だ」とか「高い」という一意的な(しかも主観的な)判断をくだされ、そしてその判断はたいていは間違っているのです。CRPがダメなんじゃない。ダメなのは、CRPの解釈、、、すなわち医者側にあるのです。
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