「海外事情」に寄稿した文章です。許可を得てこちらに転載します(初稿)。書いたのは昨年12月なのでデータはやや古くなりましたが、「総括」なので、内容は特に問題ないと思います。御覧ください。
緒言
日本の新型コロナ対策を「総括」、すなわち総合的なパースペクティブからまとめようとしたものが過去に2つ存在する。一つは、書籍になった「新型コロナ対応/民間臨時調査会 調査・検証報告書」[1]であり、もう一つは、政府が招聘した新型コロナウイルス感染対応に関する有識者会議が出した「新型コロナウイルス感染症へのこれまでの取組を踏まえた次の感染症危機に向けた中長期的な課題について」[2]である。
しかし、前者はどちらかというと「証言集」に近く、やや厳しい言い方をすれば、「個人の感想」集であり、属人的なものだった。データ解析、ファクトの解析には乏しかった。後者については政府に依頼されて役人が突貫工事でまとめたものを、「有識者」が追認するというもので[3]、こちらもデータやエビデンスの吟味という意味では不十分であったし、利益相反という観点からもやや身内びいきな評価であったように思う。
新型コロナウイルス感染症については世界中から膨大な量の学術研究が発表されている。本稿ではできるだけ「ファクト」「データ」「エビデンス」を根拠に、本稿執筆時点での日本の新型コロナ対策を検討してみたい。
世界的なパースペクティブ
2019年に中国・武漢で発生したといわれるSARS-CoV-2による新型コロナウイルス感染症(COVID-19)は世界中に甚大な被害をもたらした、今世紀最大の感染症パンデミックである。
Worldometerによると、本稿執筆時点での新型コロナウイルス症例は世界で6億5千万以上、死亡者は664万7640人である(https://www.worldometers.info/coronavirus/ )。特に死亡者が多かったのが米国で110万6963人である。人口あたり死亡が最も多かったのがペルーで人口100万人あたり6457人だ。
しかし、これらの数字は検査で診断が確定し、報告されたもののみを数えている。実際の感染者、死亡者はこれを遥かに上回るものと推測されている。例えば、感染性の高いオミクロン株が流行して以降、英国では住民の8割程度がSARS-CoV-2に感染していたであろうことが、献血者のサンプルを用いたN抗体の測定から分かっている(N抗体は新型コロナワクチンとは独立した抗体なので既感染者の規模が推定できる)[4]。報告されている2400万人程度の感染者を遥かに上回る数だ(英国の人口は6733万人、日本の半数強)。
英国では大多数の住民がオミクロンに感染し、自然感染免疫を獲得、それまで普及していた新型コロナワクチン接種のもたらす免疫が加味された状態、いわゆる「ハイブリッド免疫」が得られた[5]。これが社会活動制限緩和の大きな根拠の一つとなった。米国など、感染被害が甚大だった国ほど、このハイブリッド免疫を根拠とした社会制限緩和が進んでいる。
もちろん、英米両国は新型コロナ対策の「成功者」とは呼べない。このハイブリッド免疫を獲得するまでに米国では100万人以上、英国では20万人近くの人々が命を落としているのだから。
真の感染者数は報告数よりもずっと多いが、死亡者数もまた、実際には報告数の倍以上存在していたと推定されている[6]。つまり、世界では新型コロナ感染のために少なくとも1000万人以上の人が死に至ったのである。
先のN抗体を用いた感染者数の推定は日本でも行われており、献血者の陽性率は26.5%であった。オミクロン感染以降、4人に一人程度が感染している計算になるが、換言するならば半数以上の日本住民はまだ新型コロナに感染していないわけで、「ハイブリッド免疫」を得るには十分とは言えない [7]。報告されている日本の死亡者数は本稿執筆時点で5万344人である(内閣官房データ https://corona.go.jp/dashboard/ )。人口あたりの死亡者数では人口100万人あたり402人となり、これは世界141番めで、極めて低い状態を保っている。
英国の医学誌、The Lancetの総括によれば、新型コロナ感染による人口あたりの死亡者が世界で最も少なかった地域は西太平洋地域である。逆に、推定死亡者数が最も多かったのが南北アメリカ大陸、および欧州であった[6]。アフリカ大陸は報告死亡数が世界で最も少ない地域だが、推定死亡者数も相対的に少ない。新型コロナ死亡リスクである高齢者や肥満が少ないためと考える[8]。しかし、そのアフリカ大陸よりもずっと推定死亡者数が少なかったのが西太平洋地域である。
その原因として指摘されているのが、同地域における感染者数の少なさである。感染者が少なかったのは、感染者を抑制する政策をとったからである。こうした国々がオーストラリア、ニュージーランド、カンボジア、中国、香港、ラオス、シンガポール、ベトナム、韓国、日本などである[6]。オミクロン株が主流になるまでは、感染者を出さないための抑制策と、予防接種による免疫獲得が新型コロナ対策成功の最適解だったのだ。
しかし、SARS-CoV-2の変異株、オミクロンが流行して事態は大きく変化した。オミクロンは従来のウイルスよりも感染性が極めて高く、これまでは成功していた感染抑制が極めて困難になった。従来型のワクチンも効果が減弱しており、これも感染抑制を難しくした[9]。一方、死亡リスクは従来の変異株よりも低く、大多数が無症状か軽症例であるために、強力な感染抑制策が「割に合わなく」なってきた。そのため、これまで新型コロナ抑制策をとってきた国々も抑制の程度を弱める方向に政策を変更している。唯一、中国だけが強力な社会抑制策を継続してきたが、ここにきてロックダウンなどの社会抑制策への不満が高まった。中国でも規制は弱められるだろう。しかし、中国は効果の落ちる自国産のワクチンに固執してきた。対象的に、カンボジアは当初、中国産のコロナ・ワクチンの提供を受けていたが、ファイザーやモデルナが提供するメッセンジャーRNAワクチンのほうが効果が高いことを知り、こちらにワクチンを切り替えた[10]。加えて、中国の強力なゼロコロナ政策のために国民の大多数が感染を経験していない。中国はネット診療などハイテクを駆使した医療を提供したり、短期間の間に武漢に新型コロナ専用の病院を建設するなど、その強みがある一方で、とくに遠隔地域における医療体制が十分でないため、強力な感染抑制策を急に緩和してしまうと、免疫のついていない住民に大量の感染者が発生して医療が崩壊してしまう可能性もある。方針転換は諸刃の剣で、判断が難しいところである[11]。
以上、これまでの新型コロナウイルス感染症の経緯と問題点のポイントをまとめた。ここからは日本のコロナ対策について各論的に論じる。
2019年から20年にかけての武漢での最初の流行を受けて、チャーター便を用いて武漢にいた邦人などが日本に帰国した。829人が帰国し、そのうち815人に2回以上のPCR検査が施行された。14人の感染が確認され、うち7人に肺炎が認められた。重症化リスクが高くはない50〜60代の感染者が多く、死亡者はいなかった[12]。後述するダイヤモンド・プリンセス号のクラスターとの大きな違いである。
初めての診断や感染者のケアということで、搬送関係者も搬送先の医療関係者もさぞ緊張したと思うが、結果的にはこのミッションは無事に遂行された。比較的感染者が少なかったことや、ハイリスク者が少なかったことが幸いしたのかもしれない。
2月4日にCOVID-19感染者を載せたクルーズ船、ダイヤモンド・プリンセス号が横浜の大黒ふ頭に碇泊、船内の乗客、乗員は下船することなく、14日間の隔離検疫状態になった。
当時の船内の感染対策を失敗だと筆者は論じ、それは話題になった。筆者の指摘を担当した官僚や政治家たちは否定し、船内の対策を「成功だった」と主張した[13]。
では、対策の「成功」とはいったいなにか。
それは、船内での隔離検疫後の感染が防止されていることである。14日隔離し、それを解除する理論的な根拠は、「その14日間、新たな感染者が発生していない」ことにしかないからだ。逆に言えば、この間に新たな感染者が発生していれば隔離期間を延長せざるを得ない。
当時日本には新型コロナのPCR検査が十分にできる体制が整っておらず、検査は少数ずつ五月雨式にしか行えなかった。そして、14日の隔離が終わったあとも結局1度もPCR検査をすることなく下船した乗客・乗員も多かったことも、現在では分かっている[14]。
その後の研究で、クルーズ船内では隔離期間終了時にも再生産数が1.5以上あったことが推定されている。これは新たな感染者が発生して感染者数が増加していたことを示す数字だ[15]。
実際、隔離解除のあと、船内にいた外国人乗客は各国が用意したチャーター便に乗って帰国した。帰国した彼らを待っていたのは、さらなる2週間の追加の隔離であった。筆者が動画で船内の感染対策の不備を指摘したためにとられた、当然の措置であった。2020年3月1日の筆者の記録によると、各国で帰国後の感染が相次いだ。
香港 200人以上帰国 5人感染
英国 30人程度帰国 4人感染
オーストラリア 150人以上帰国、10人感染
米国 300人以上帰国、 5人感染
イスラエル 11人帰国 2人感染
そして、日本で下船した乗客でも少なくとも4名、乗客以外では検疫所職員3名、厚労省職員4名、医療者(DMATなどの船内活動者)2名が感染している。実際には上述のように、下船者で検査をしていない者もいたから、もっとたくさんの船内感染が起きていたはずだ。
クルーズ船の感染対策は、そのミッションとアウトカムから立脚する限り、失敗だったのである。
余談ではあるが、筆者が感染対策の不備を日本語と英語の動画で告発したことが一部の批判を招いた。他国に日本の恥をさらすのは国益に合致していない、という愛国的な視点によるものだ。
しかし、もし各国が日本政府の感染対策の不備を疑わず、そのまま乗客たちを帰国させ、そこでさらなるコロナ流行を招いてしまったとしたらどうだろう。当時は武漢の流行も下火になり、まだイタリアなど他国での流行は起きていなかった。世界中が日本のクルーズ船を注視していたのである。その船の感染対策が原因で他国に感染が飛び火したら、各国の批判が日本に集まるのは必定だ。
確かに、評判を高めるのも国益の一つではあるが、結果を出すこと、実害をもたらさないのはもっと重要なのである。
その後、新型コロナウイルス感染は中国から世界各地に広がっていった。日本の初期(いわゆる第一波)の感染対策はどうであったか。
全体的には、それは成功したと考えている。
日本は海外からの感染症の今日にさらされる経験に乏しく、その「仕組み」も十分にできていなかった。中国は2002年からの重症急性呼吸器症候群(SARS)、韓国も2015年の中東急性呼吸器症候群(MERS)の流行を経験しており、新たな呼吸器感染症の勃発がもたらしうる被害や対策の難しさを痛感していた。両国は感染対策の中心たるCDCを作り、感染防御や治療、検査体制を整備していた[16,17]。しかし、このような危機を経験しなかった日本は、重大な感染症と対峙する能力を欠いていた。
日本では現在に至るまでCDCに該当する組織が存在しない。前述のように新型コロナ流行当初はPCR検査も十分にできず、検査をわざと抑制せざるを得なかった。感染症病床をもつ医療機関も少なく、感染症や集中治療を専門とする医療従事者も少なかった[18,19]。モノにおいてもヒトにおいても組織においてもリソースが不足していた。保健所はその数を減らされ、国立感染症研究所も予算不足、人員不足に苦しんでいた[20,21]。
加えて法制度上の問題もあった。いわゆる「感染症法」は1990年代に施行されたもので、最新の科学的知見やエビデンスを活用する仕組みを欠いていた。例えば、現在も感染者が増加している梅毒は「感染症法」における届け出感染症(5類)だが、届け出制度が梅毒流行抑制に寄与することはない。対策やアウトカムに連動していないためで、要するに「ただ、届けているだけ」なのである。アウトカムに立脚したEBMの概念を感染症法が内包していないのは大きな問題だ。
手続きも時代遅れで煩瑣である。古い紙の書類、ハンコ、FAXを使った届け出制度のために医療者も保健所も無駄な疲労を強いられた。後に届け出はインターネット上のHER-SYSが用いられるようになったがこれも使い勝手の悪さや煩瑣な仕組みのために現場には嫌われた。例えば米国ではカルテ記載や検査結果を電子的、自動的に報告するシステムが導入されており、医療者が書類を書いたり、保健師がエクセルで入力しなくても症例の収集、データの統合が自動的に行われる[22]。
このようなリソースの欠如、仕組みの欠如にも関わらず、初期の新型コロナ対策は他国に比べて非常にうまくいった。少ない人員や検査キャパの欠如にも関わらず、感染者の検出やクラスターの抑え込みに全力であたったからである[23]。それはまさに「努力と根性」がもたらした結果であった。
しかし、もちろんこれは美談ではない。年単位で続くパンデミックで、医療者も公衆衛生担当者も疲弊してしまったからである。
「第一波」前後の新型コロナ流行曲線。米国、欧州諸国と比べてアジアの日本、韓国の感染が極めて低く抑えられていることが分かる。
日本では2020年4月から「緊急事態宣言」を安倍総理大臣(当時)が全国を対象に行なった。これは罰則規定のある他国のロックダウンとは名称こそ異なれ、同調圧力の強い日本においては(少なくとも当初は)非常に強力に作用した。多くの人々が外出を控え、外出時のマスクは必須となった。前述のように、日本の「第一波」は感染者数を非常に低く抑えたまま収束したのである。
この時期、まだ効果的な治療薬やワクチンは使用不可能だった。よって、重症者や死亡者の増加を阻止する方法は「感染者を減らす」ことだけが唯一の効果的な方法だった。感染者を減らす=死者を減らす、だったのであり、だからこそ有効な社会抑制策がコロナ対策の成否を分けたのである。
このような強力な人流抑制が感染制圧に効果的なことはすでに先行研究が示している[24]。日本のみならず、ロックダウンをとった多くの国で、感染者数の減少をみることができた。
ただし、この「緊急事態宣言」はこのあとも繰り返される。そして、繰り返すことによる「慣れ」や住民の苛立ちから抑制効果は徐々に薄らいでいき、その後の「波」も大きくなり、感染者、そして死亡者も増加していくこととなった。
緊急事態宣言前の2020年3月1日からは全国の学校に休校が要請された。実質的に日本のほとんどの小中高校が休校状態となった。
しかし、我々の行った時系列解析によると、この休校は感染対策にはほとんど効果がなかったことが示唆されている[25]。そもそも、当時の新型コロナウイルス感染は小児における感染は非常に少なく、流行の主体にはなっていなかった。流行の主体でないところに介入をかけても十分な効果が期待できないのは当然である。この時期の「政治的決断」は科学的な判断というよりも政治的なアッピールの要素が大きく、成果は乏しかった。
その後、オミクロン株の流行では従来とは異なり、小児での感染者が激増した。各地で学級閉鎖などが行われたが、休校の弊害も大きく、学校活動は感染対策を継続した形で継続されるようになった。
ほぼ同時期に、すべての家庭にマスクを郵送する、いわゆる「アベノマスク」政策もとられた。しかし、そもそも布マスクがウイルス感染を予防する効果は乏しく[26]、実質的な効果は期待できなかった。
とはいえ、当時は医療用マスクが品切れして入手困難になっていたため、市民の不安解消の一助にはなった可能性はある。ただし、結局8000万ものマスクは未使用のままで倉庫に眠っていたことなどを考えると[27]、その物的、人的リソースを用いるに値するほどのアウトカムが得られたかといえば甚だ疑問である。
「第一波」を抑え込むまでは日本の感染対策はコヒーレンスが保たれていた。成功した対策も失敗した対策もあったが、全体としては「ここで感染を抑え込む」というミッションは概ね共有されていた。
しかしその後、世論は分断しはじめる。これは日本に限らず世界の多くの国々で観察されたことである。「感染対策か?経済か?」という2つの命題を巡り、ミッションは共有できなくなった。
旅行や外食を促進するいわゆる「Go To」は人の移動や外食が明らかな感染リスクである以上、感染対策としてはカウンタープロダクティブであるが、「Go Toが感染拡大の主要な原因だというエビデンスは存在しない」といった政治家の詭弁に抵抗された。実際、「Go To」と感染拡大の関係を明示した論文は少なく、Nishiuraらの比較的プリミティブな論文などしかないが[28]、これはむしろ日本がITを駆使したデータサイエンスを行うスペックを欠いていたためであろう。Absence of evidence is not the evidence of absence、なのである。事実、海外からは人の移動やレストランの使用と新型コロナ感染拡大の関係を示した論文は出されている[29]。
感染症は感染経路が存在せねば成立せず、新型コロナの感染経路は基本的にヒトからヒトだ。ヒトとヒトとの遭遇を増やす外食が感染を助長するのは筋の通った考え方だし、実際データもそれを示唆している。日本の47都道府県全てに新型コロナが流行したのはウイルスが上空を飛翔したためではない。「ヒト」が各地に運んだのである。人の交流がその地での感染を拡大させ、人の移動が感染地域を面的に拡大させる。「Go Toにエビデンスがない」が詭弁なのは明らかだ。クルーズ船でもそうだったが、ときどき出される政治家や官僚の詭弁が、日本の感染対策の論理性や科学性を毀損する。
2020年後半から2021年はじめにかけて、複数の新型コロナ・ワクチンが開発され、その有効性が確認された[30,31]。これが本感染症の「ゲーム・チェンジャー」になった。
mRNAワクチンは新型コロナの感染を防ぐのみならず、他人に感染しにくくなり、重症化しにくくなり、よって死亡リスクも減る[32,33]。その効果はオミクロン株の出現によって目減りしてしまったが、ブースター接種により感染リスクはある程度下げられるし、重症化予防効果は十分に高い。ワクチン接種が有効に行われれば「感染者は増えても、重症者は増えない」という「デカップリング」が可能になり、よって経済その他にマイナス面の大きい社会的抑制策をある程度回避できる。
日本はこのmRNAワクチンの確保、供給、普及に迅速に対応した国である。初期段階こそ、やや他の先進国に遅れを取ったが、2021年5月あたりから一気に供給が増加し、住民の多くにワクチンを提供することに成功した。
新型コロナワクチン接種回数。
日本の迅速なワクチン接種は「第5波」において、「第4波」よりも死亡リスクが下がったことや、より重症化リスクの高かったデルタ株の流行(「第6波」)での感染拡大が比較的速やかに収束したことに寄与している。その後のオミクロン株の流行では、感染者が激増したために総死亡者こそ増えてしまったものの、死亡率はやはり低下していたのもワクチンの寄与するところがある(オミクロンになっての病原性の低下も一因である)[34,35]。
当初、新型コロナに有効な治療薬は全く存在しなかったので、重症患者は全身管理をしながら自然に回復するのを待つよりほかなかった。そこで、前述の集中治療の専門家不足が問題になった。
全身管理のためのECMO(extracorporeal membrane oxygenation, 体外式膜型人工肺)や、nasal high flowと現場で呼ばれる高流量鼻カニュラ酸素療法も患者激増時には枯渇したが、世界的に見ると潤沢であった。特にECMOは2009年の新型インフルエンザ流行時にその重要性が認識され、呼吸管理の専門家達によって普及がなされていた。過去の感染流行から学び、十分な反省と準備ができていた稀有な一例と言える[36]。当初は枯渇していた防護服やマスクも程なく供給されるようになり、インドなどでは発生していた酸素不足も日本は回避できた[37]。サプライチェーンの保守がなされたことと、比較的患者数が少なかったことが原因と考える。
その後、世界中で臨床試験が行われ、重症患者の生存確率を高めるデキサメタゾンが治療に用いられるようになった。後に、軽症患者の重症化を防ぐ数々の治療薬も開発され、その有効性が確認された。厚生労働省によって治療の「手引き」が執筆され、それは定期的に更新された[38]。
治療薬の多くは「感染症法」に基づいて無料で提供された。ただ、その手続は煩瑣で医療現場は疲弊したし、供給量も十分ではなかった。
特に、重症化予防効果が高いニルマトレルビル/リトナビル(パキロビッドパック)の処方は十分ではなかった。厚生労働省によると、2022年9月15日時点でのパキロビッドパックの使用量は4万4276人分で、より予防効果の落ちる抗ウイルス薬、モルヌピラビル(ラゲブリオ)の61万9621人分を大きく下回る[39]。ラゲブリオは効果が低い理由で米国のNIHガイドラインでは使用が推奨されていない(他にオプションがないときにやむを得ず使用する薬とされる)[40]。実際、米国ではパキロビッドの処方量がラゲブリオよりも遥かに多かった[41]。これは政府、厚生労働省がパキロビッドを現場で容易に処方できるような仕組みを作らなかった点に問題があるが、それだけではない。米国感染症学会IDSAは薬物相互作用に注意が必要なパキロビッドについて、相互作用があってもほとんどの患者にはパキロビッドの処方が可能であることを示すガイドラインを発表していた[42]。一方、日本感染症学会はパキロビッドの医薬品としての情報を提供するのみで、翻訳がラゲブリオよりも重要性、優先度の高い薬であることを周知することを怠り、かつ薬物相互作用を克服する方法についても言及が不十分であった[43]。もちろん、日本の医師がNIHやIDSAのガイドラインを閲覧、理解していれば容易に克服できることであった。よって、この問題は政府/厚生労働省の戦略性やミッションの欠如、専門家集団の戦略性の欠如、一般医師たちのリテラシーの欠如が重なり合って起きた問題であった。
日本の新型コロナウイルス感染症対策において最重要な役割を果たしてきたのが、保健所などの公衆衛生対策である。感染者の報告を受け、濃厚接触者の確認、入院先あるいは療養施設の調整、健康観察など、多種多様な業務を行ってきた。このようなきめ細やかな対応は他国ではなかなか見られないものではないかと考える。
他方、きめ細かな対応はヒューマン・リソースを消耗させた。特に患者数が激増したときは保健所機能は麻痺し、医療機関の疲弊とともに「医療崩壊」寸前の状況にまで追い込まれた[44]。前述のようにもともと保健所数は減少され、マンパワー不足は明らかだった。それ以上に問題だったのが業務の効率性の欠如とIT化の遅れだった。電話やファックスといった時代遅れなツールに依存し、会議もリモート会議に転ずるのに時間を要した。前述のように報告システムの自動化もできず、多くの作業が手作業であった。ヒューマンリソースの充足以上に、保健所機能のモダナイゼーションは喫緊の課題である。
新型コロナウイルス感染症は過去に例がない、特異的な感染症である。
その最大の特徴は、疾患の二重性にある。若い、健康な住民については、新型コロナは軽症、あるいは無症候性の感染に終わることが多い。しかし、高齢者や肥満などのリスクを有する人にとっては、それは死に至らしめる感染症となりえる。前者は感染を世界中に広める理由となり、それがリスクのある患者の感染をもたらし、そして結果として多数の死者を出した。
また、前者にとりコロナは低リスクの現象であり、強力な社会抑制的な政策は経済や生活を圧迫する存在となった。後者にとっては、コロナは生命を脅かす存在であり、強力な予防策に依存せざるを得なくなった。
このような真逆の特徴を併せ持つ感染症の特徴から、そのリスク・コミュニケーションは非常に難しいものになった。地震や津波などの自然災害では起きない現象だし、エボラウイルス感染症のように一律に死亡リスクの高い感染症でも同様の問題は起きない。コロナを過度に軽視する意見と、過度に怖がる意見が同居し、分断は深まった。
感染対策の要諦は感染経路の遮断にある。感染経路の遮断策は、感染者が多いコミュニティでは強力に行われる。感染者が少ない場所では感染リスクが低いため、強力な施策は不要である。よって、問題がないときは行動制限もマスクも不要になるし、感染者が急増したときは行動制限もマスクも必要となる。
例えるならば、パンデミック対策は水対策のようなものである。一滴の水には何の対策も必要ない。コップ一杯の水でも同様だ。たらい一杯の水が降り掛かってくれば避ける必要が生じるし、雨になれば傘をささねばならない。大雨になれば傘では防護が不十分となり、自宅などに避難しなければならない。これが津波となると自宅にいることも危ない場合がある。一律にこれが正しい、という水対策はなく、その規模に応じて対応を変えねばならないのだ。
しかし、このような「状況に応じて対応を変えましょう」というメッセージを多くの人は嫌う。一律に、こういうときは、ああしなさい、というノウハウを希求する。局面、局面でそのようなノウハウを伝えると、「あのときはマスクは要らないといったのに、今は要るとはどういうことだ」と不満が生じる。これにインターネットのソーシャルメディアや、テレビなどのラージメディアのミスインフォメーション(間違った情報)、ディスインフォメーション(人を欺くためのデマ)の爆発的な増大、すなわち「インフォデミック」が人々の混乱に拍車をかける。ワクチンは危険だ、といった陰謀論を唱える人も多々出現する。これは日本のみならず、世界的な傾向である[45]。
インフォデミックに対峙する特効薬は存在しないが、これを看過するのは間違いだという点では識者の見解は一致している。もともと日本政府、厚生労働省は効果的な情報発信が得意ではなく、例えばインターネット上の情報も見つけにくい、読みにくい、分かりにくいものが多かった。最近では新型コロナ・ワクチンの誤情報に対抗するよう、Q&Aを設けるなど[46]、少しずつ改善はしているようだ。
日本では1990年代のMMRワクチンの副作用問題などで厚生労働省が予防接種制度に消極的になった時代があった[47]。そのため、近年ではヒトパピローマウイルス・ワクチンの副作用疑惑に過剰に反応し、勧奨差し控えといった誤謬も犯してきた[48]。そんな中で国内企業のワクチン開発へのインセンティブは低下し、研究所などでのワクチン製造、供給が主流となった。近年では「予防接種後進国」と言われる日本の現状を克服しようという動きも見られているが、多くの予防接種は海外企業の製品を輸入せねばならない状況となっていた[49]。
そのような状況下で新型コロナのパンデミックが起き、にわかにワクチンのニーズが大きくなった。これまで実績のなかったベンチャー起業「アンジェス」に藁をも掴む思いで75億円もの国費が投じられたが、ワクチン開発には失敗した[50]。2022年になり、武田製薬株式会社の組み換えタンパクワクチン「ノババックス」が薬事承認され、ようやく国産の新型コロナワクチンが実用化した[51]。
今後は日本のワクチン開発力の強化とともに、開発資金供給の適正性についてもさらなる改善が必要であろう。
13.治療薬開発
国内での新型コロナウイルス感染症治療薬開発も苦戦している。ファビピラビル(アビガン)、イベルメクチンなどは臨床試験で有効性を見いだせず[38]、エンシトレルビル(ゾコーバ)は軽症コロナの複数の症状を1日短縮する効果が示され、緊急承認されたが得られるアウトカムが小さすぎて患者にとってどれだけの利益になるかは不明である。むしろ、発熱外来にゾコーバを求めて自然治癒するであろう軽症患者が殺到し、医療が逼迫するリスクすらある[52]。国産の治療薬を出したいという気持ちはわかるが臨床医学の科学性を無視した形でゴリ押しするのは、日本医学の質を下げてしまいかねず、問題である。また、上述のアビガン、イベルメクチンなど効果が示されない国産薬を推奨する医師が複数いたのも問題であった。エビデンス・ベイスド・メディシン(EBM)を理解しない臨床医が未だにいる現状も、改善を要するポイントだ。
新型コロナウイルス感染症に関する日本発の研究は多くなく、特に臨床研究は少なく、質も高くない。我々専門家が猛省すべき点である。
端的に人的リソースが足りないのが最大の理由であり、診療をしながらコロナの研究をするのは困難だ。よって、「波」の間の「農閑期」に研究に従事することになり、どうしても発表は遅れてしまう。個人的な経験だが、ある査読者に「なぜ、今頃になってこんな話題を論文にしているのか」と問われて絶句したことがある。「この話題」がホットなときには、その対応に追われて研究ができなかったのである。
IT化、DXの問題も大きい。諸外国では診療情報やワクチン接種データ、ウイルスの変異株のデータも突合が可能なため、大量のデータを用いた迅速な解析、学術発表ができる。数百万規模のビッグデータを扱い、数週間で解析を済ませて論文を完成させてしまう。公衆衛生上の利益も大きい。翻って日本では、このような作業は基本手作業で、研究所から「郵送」で送ってきた紙のウイルス情報と、各医療機関を直接訪問し、カルテを開き、エクセルに手で臨床情報を入力し、予防接種の情報はまた別の場所から手に入れるといった、泥臭いやり方を強いられる。これではどんなに頑張ってもデータの量も少なくなり、時間も手間もかかり、そして発表は大いに遅れて「賞味期限切れ」になってしまう。
臨床研究に対する人的、物的、そして金銭的リソースの拡充と、データマネジメントシステムの刷新、IT化、DXが喫緊の課題であるが、現実には大学の運営交付金は年々減らされ、研究者を雇用するのは困難である。保健所でも問題となった情報マネジメントの問題は臨床研究の困難の原因でもある。
結語
日本の新型コロナ対策は、他の西太平洋諸国同様、世界レベルではかなりよい結果をもたらした。特に感染者数の抑制策とワクチンの供給において、日本は他国に比べて成功したと言える。他方、日本には感染対策の仕組み、リソースが枯渇しており、貧弱な環境下での無理やりな「成功」だったことも否めない。よって、かつてのSARSや新型インフルエンザ問題のときのように「(偶然)うまくいった」と現状維持に甘んじることなく、抜本的な改革を行い、次に流行する新興感染症対策を盤石なものにせねばならない。新型インフルの総括会議では日本版CDCに言及がされているのに、結局この提言は無視されたのである[53]。報道によると(今度こそ)「日本版CDC」が設立され、それは国立国際医療研究センターと国立感染症研究所が合併するものだというが[54]、単なる名前の変更で「やった感」を出すのではなく、本当の意味で科学性や独立性を担保し、成果に直結した組織となってほしい。保健所、医療機関、そして医師の質改善や構造改革も喫緊の課題である。
文献
神戸大学医学部附属病院感染症内科の研修プログラムのオンライン説明会の案内をさせてください。
堅苦しい説明会ではありませんので、お気軽にご参加ください。
○説明会概要
日時:2022年8月30日(火)18:30開催 ZOOMで開催します。
対象:神戸大学感染症内科での研修に興味をお持ちの方。
申し込み方法(Google form):https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSec3S2IuNFMsD7u9HnlNKSrN0Upv34h7Zh-OlMLWLk63xH5PA/viewform?usp=sf_link
Googleformで申し込まれた方に、ZOOMのURLを送ります。2日過ぎてもURLが送られて来ない場合は、kobeidアットmed.kobe-u.ac.jpまでご連絡ください。
当日や前日になって参加したいという方も大歓迎です。
その場合、kobeidアットmed.kobe-u.ac.jp まで連絡をいただければ、対応いたします。
Google formに質問欄がありますが、当日質問も受け付けております。
どうぞ宜しくお願い申し上げます。
下記当科の紹介をさせていただきます。
[診療内容]
・900床規模の特定機能病院です。
・大学病院ならではの複雑な症例、稀な症例も経験できます。
(例えば:固形臓器移植後、同種造血幹細胞移植後、膠原病などの自己免疫疾患、原発性免疫不全、心臓大血管手術後の感染症、難治性骨感染症など)
・他科からのコンサルテーション業務が中心ですが、HIV合併症、STI、渡航者発熱などで、入院が必要な場合は主治医で診療しています。リケッチアや寄生虫症例も来ることがございます。
・COVID-19は外来自科患者さんが入院される場合は、主治医で診療しています。それ以外のCOVID-19患者さんは、コンサルトいただいた場合、併診させていただいています。
・年間併診症例数は850-1000例(血液培養陽性連絡, 外来対応症例, COVID-19相談は除く)ほどです。
・他科からのコンサルテーションでは20-30人のフォローをしています。
・血液培養陽性症例は全例確認し、併診が必要ならフォローしています。
・専門研修で来ていただく場合は、1年目は病棟中心、2年目以降から外来診療がございます。外来ではワクチン診療、結核、渡航医療やHIV患者さんを多く経験できます。未承認ワクチンなども導入しています。
・感染症研修3年目以下の医師が1人で判断することはなく、指導医クラスに必ず相談できる環境です。
・大学病院ですので、学生さんや初期研修医がローテートしてくれており、活気があります。
・Journal Clubで知識を共有しています。
[勤務スタイル]
・平日時間外はオンコール制(時間外:17:15-8:30)です。
・土日祝日は当番制です。主科入院がない場合や特殊な事情を除いては、基本的には電話相談のみです。
・大学病院の当直は月1-2回ほどです。
・専門研修の場合、アルバイト先は当科からご紹介できます。
・後期研修プログラムで研修いただく場合は、たすき掛けとして大阪和泉市の府中病院での研修が可能です。
[その他アピールポイント]
・岩田先生の熱いカンファレンスを受けられます。
・教科書や雑誌の原稿など、回ってきます。原稿料は書いた人がそのまま貰えます。
・たまに、書いたばかりの原稿が貰えます。
・診療だけでなく臨床研究に興味のある方は、統計学相談なども臨床研究推進センターなど院内の部門から受けることができますし、当科でもサポートします。
・3年間のうち3か月の院外実習期間が可能です。この期間を利用してGorgas diploma course(熱帯医学)に留学され卒業した方もいます。
・頼りになる優しい秘書さんがいらっしゃいます。
[その後の進路]
・短期研修ではご自身の診療科にそのまま戻っていただきます。当科での研修が通常診療の助けになればと思います。再度感染症を深く学びたい、と思われたらぜひ専門研修として戻ってきてください。
・感染症専門研修3年を終了後の進路はさまざまです。感染症内科として働く方だけでなく、総合内科、膠原病内科、腫瘍血液内科、呼吸器内科、集中治療医、救命救急医、家庭医、研究者などいます。どの診療科でも感染症が無関係の部署はないので、研修して得られるものはあるかと思います。
現在のフェロー男女比は、男性2人、女性2人です。
お気軽にご連絡ください。見学はリアルでもオンラインでも、いつでも受け付けております。当科の診療の様子や雰囲気を実際に見ていただければと思います。詳しい内容や質問などあれば、個別にご相談いただければ対応いたします。ご連絡お待ちしております。
■連絡先:kobeidアットmed.kobe-u.ac.jp
■募集要項■
① 感染症フェロー(専門研修)
期間:原則3年間のフェローシッププログラム
所属:神戸大学大学病院の職員(医員)
医師年数:卒後6年目以降
募集人数:数名
勤務体制
・通常勤務:週4日神戸大学、週1日外勤先での勤務
・休日体制:完全当番制 月3-4回程度
・夜間:オンコール体制 月5-6回
・給与:大学からの給与+外勤先+原稿料
商業誌原稿の仕事が岩田から回ってくる可能性大です(監修はつきますが、原稿料はまるまるフェロー取りです)。
給与の詳細はお尋ねいただければ、具体的にお伝えします。
・外勤:週1日の外勤(こちらで準備できます)
② 内科専門医研修プログラム
期間:神戸大学内科専門医研修3年間プログラム(内科専門医Subspeciality特化研修コース)
医師年数:卒後3年目以降
応募人数:原則2枠ですが、ご相談ください。
勤務体制:神戸大学だけでなく府中病院とのたすき掛けが可能です。ご相談くだい。
③ 短期研修
期間:1か月からご相談ください。
所属:勤務元病院になります。お給料も勤務元になります。ご了承ください。
医師年数:原則卒後6年目以降ですが、ご相談ください。
募集人数:ご相談ください。
庭に水やりをしたすぐあとで、激しい夕立が降ってきたりすると心底がっかりします。計画性も生産性もない作業にムダな時間、ムダな水道水を浪費してしまった自分を責めます。こういうムダは本当に嫌いなのです。
ところが、このような生産性のない作業を容認したり、ひどいときには奨励すらするエートスが日本のここかしこに見られます。曰く、「毎日、水やりをやるその気持が大切なんだ」とか「努力は裏切らない」とか「確かに、気の毒な話だが、一定の効果はあったと思う」といった、努力を奨励する努力主義です。
大量の雨水が落ちてくる夕立に対して、ぼくが撒くことのできる水の量などたかが知れていて、とても「一定の効果があった」などとは言えません。こういうのをぼくは「毛が3本生える育毛剤」と呼んでいます。常識的に言えば、3本しか毛が生えない育毛剤は「ヤクタタズの育毛剤」ですが、たちの悪いタイプの役人とかは詭弁を弄して「毛は生えたのだから、一定の効果はあった」と言うのです。
意味がないと分かっていても、毛が3本的な「一定の効果」にすがって、人的、物的リソースの無駄遣いを止めない。よくある話です。ちょうどこの文章を書いているとき、国外からの「サル痘」の輸入例が報告されていました。報道によると、政府は水際対策を強化するそうですが、サル痘のような性感染症の性質が強い感染症に対して、「水際」が役に立つことはほぼありません。インフルエンザのような呼吸器感染症ですら、水際対策の感度は2割ちょっとしかなく、実質的な輸入防御には役に立たないことが分かっています。はいはい、そこのあなた、「完璧とは言えないけれど、一定の効果は」とか言わないでくださいね。
Nishiura H, Kamiya K. Fever screening during the influenza (H1N1-2009) pandemic at Narita International Airport, Japan. BMC Infect Dis. 2011 May 3;11:111.
海外に行かれる方はご存知だと思いますが(昨今はなかなか行けませんが)、空港の入国時に感染症関係のチラシをベタベタ貼って「水際」対策をとっているのは、ぼくが知る限り日本だけです。そのくらい、空港で感染症をブロックするのは難しいのです。もちろん、空港検疫で感染症が見つかることはありますが、その多くはデング熱のような潜伏期が極めて短い感染症です。デング熱は蚊媒介感染症で、ヒト−ヒト感染はしませんから、空港で捕まえる特段のメリットはありません。はいはい、そこのあなた、「特段のメリットはなくても、一定の効果は」とか言わない言わない。
一時期の新型コロナ感染対策のように、海外からの渡航者をブロックする覚悟で対策を取れば別ですが、渡航者の流入をOKにしながら感染症だけを入れない、というのは現実的な方法ではないのです。現実的ではないから、他の国はそういう方法を採択しないのです。それなのに、日本は「駄目と分かっているのに」やっている。分かってないのか、分かってないことが分かってないのか。悩ましいところです。
話は変わりますが、「学校教育で、古文とか漢文とかを教えるのは無駄だ」という主張を耳にすることがあります。「あんなものを勉強しても、実社会で役に立った試しはない」のだそうです。
ただ、「実社会で役に立たない」という主張には注意が必要です。ほとんどすべてのことは、役に立てていない限り、役に立たないからです。
「日常生活に困らないレベルの英語」という言葉があります。
ぼくは1998年からニューヨーク市に5年間、研修医として勤務していました。当時、多くの日本人がニューヨークに住んでいましたが、一定数の方々はほとんど英語力がつかないまま米国に滞在し、そして帰国していきました。
実は、英語なんて全然できなくても、「日常生活」には困らないのです。日本人だけでつるんで、インナーサークルで生活していれば困らない。買い物とかにいっても、別に喋らなくても用は足せます。
自分の基準を下げ続けている限り、どんなに英語ができなくたって「日常生活には困らない」のです。
実社会で、必要なときに漢詩を諳んじたり、古典を引用して、窮地を突破したり、新しいアイデアを発揮する人はいます。もちろん、それができなくたって「日常生活には困らない」わけで。英語ができなくても、算数ができなくても、自分のレベルを下げ続けていれば、いつだって「困りません」。
だから、ある人が「あんなものを勉強しても、実社会で役に立たない」というエピソードを披露しても、それは何の根拠にもならないのです。その人が、学んだことを実社会で役に立てていない、というカミングアウトをしているだけに過ぎないのです。
もっとも、それはそれとして、ぼくは現在の学校での古文や漢文の教育方法は絶望的なまでに失敗しているとも思っています。
それは、アウトカムに寄与していないためです。要するに、多くの人が「古文や漢文は実社会で役に立たない」と思っているわけで、そう思わせ続けた学校教育の失敗なのですね。
何段活用とか、どこにレ点を打つとか、そういうのを暗記させて、受験させて、受験が終わったらおしまい、という教育構造を続けている限り、我々は実社会で古文も漢文も活用しません。「受験」という短期的なアウトカムに注力しすぎて、もっと長期的なアウトカムをガン無視してきた日本社会全体が大いに反省すべきところです(これは、現場の教師だけの問題ではなく、短期的なアウトカムに注力させてきた親たちや、大学や、会社など社会のほぼすべてが加担している問題なので、教師や文科省だけが反省すべき問題、ではないのです)。
他の教科も同様です。神戸大学医学部の学生たちの英語力の低いこと、低いこと。大学受験までにものすごく時間を費やして英語の勉強に力を注いできたにもかかわらず、基本的なテキストや論文が読めないどころか、中学レベルの英会話すらおぼつかない学生が多いです。通俗的な偏差値での判定ならば、日本でトップレベルのオツムの良い集団を集めてきたはずなのにもかかわらず、この体たらくです。
このように、マラソンを走るときにスタートから全力疾走させて、あとは疲れて止まってしまうような日本社会では、古文も漢文も英語も三角関数も、その他諸々の学校教育の成果も構造的に活用しにくいのです。学校教育での古文や漢文学習は無駄、などという暴言を相手にする必要はないとぼくは思いますが、それはそれとして学校教育の構造的変革は必要不可欠なのです。
生産性とはなにか。ムダとはなにか。学校教育での古文や漢文学習はムダではないとぼくは思っています。が、それが長期的なアウトカムに寄与していない限り、生産性のないムダな時間とエネルギーの浪費だともぼくは思います。
生産性についてほとんど顧慮することなく、昭和の時代を突き抜けてしまった日本社会。山のようにムダ、無意味はありますから、それを形式ではなく本質で看取し、変革していくのが、このような世界を次世代に託してしまいそうな我々、老境の世代の喫緊の責務だとぼくは思っています。
これも今書いている本の一部です。長いです。
今はどうなっているかは分からないのですが、そういえばぼくが米国のニューヨーク市で研修医をしていたときには、 開業医が病院でも主治医をやる、というシステムを取っていました。かかりつけの患者さんが何かの理由で入院すると、その開業医が主治医となる。その場合は「プライベート患者」という枠組みになり、ぼくら研修医はその医師の指示に従って検査や治療を遂行するのでした。
ぼくが勤務していたセントルークス・ルーズベルト病院では、そういうプライベート・プラクティスの患者さんも概ね、問題なく診療できていました。しかし、なかには明らかに入院診療に慣れていない医師もいて、そういう医師の指示は非効率だったり、最新のエビデンスから外れていた非科学的なものだったりして、研修医の評判はよくありませんでした。「おれ、またドクターAのプライベート患者もっちゃったよ。変なオーダーばかりでフラストレーション貯まるんだよなー」とぼやきあったりしたものです。
マンハッタンのプライベート・プラクティスならば、入院させる病院も近くにあるので、外来診療後にちょっと車を飛ばしたり、タクシーに乗ればすぐに病院に到着できます。そこで患者を診たり、カルテを書いたりするわけですが、ケアの継続性が維持できていて、良いシステムだな、と思うところもありました。
一方、他の州で診療する知人などは結構大変だったりしたようです。例えば、最寄りの病院が150kmくらい離れたところにあったりすると、入院患者を診るために毎日その病院まで通うのは容易なことではありません。米国はとても広いですし、日本のようにたくさん病院があるわけではありませんから、こういうことは往々にして起きるのです。
例によってOECDのデータを参照しますが、米国では人口100万人あたりの病院数は18.55です(2019年)。同年の日本が65.79ですから、いかに日本では病院の数が多いか、米国では病院の数が少ないかが分かります。
https://stats.oecd.org/index.aspx?queryid=30182
しかし、COVID-19のパンデミックが明らかにしたように、日本の病院は数こそ多いものの、機能という意味においてはキャパシティを担保していなかったりします。発熱患者、コロナ患者は受け入れない病院のいかに多いことか。ことほどさように、日本の病院の数はとても多いのですが、できないことも多いのです。日本の場合、入院期間が長いこともあって、病院が米国ほど急性期の機能を備えていないという側面もあると思います。
まあ、それはさておき。米国の開業医が病院での主治医を行うというのは、患者サイドからみた「ケアの継続性」という観点からは素晴らしいものだと思います。一方、これは場所によっては医師の負担が非常に増えますし、労働効率性という観点からはとても効率が悪いですね。あと、入院診療に慣れていない開業医がために入院患者をケアすると、ケアの質の問題に繋がります。
さて、21世紀になって、米国では入院患者を診ることを専門にするホスピタリスト(hospitalist)というコンセプトが導入され、人気になってきました。ホスピタリストは1996年に導入されたそうなので、ぼくが研修医になる数年前だったのですね(1998年)。その後、ホスピタリストは増え続け、米国には6万人近くのホスピタリストがいて、病院の75%はホスピタリストを雇用しているのだとか。
eCareers H. The Rise of Hospitalists — And What Comes Next [Internet]. healthecareers.com. [cited 2022 Jul 19]. Available from: https://www.healthecareers.com/articles/healthcare-news/the-rise-of-hospitalists
ホスピタリストと非ホスピタリストで、診療の質はどちらが高いのか。たくさんの研究がありますが、両者の明確な差は確認されていないようです。例えば、最近では高齢者などのメディケアという医療保険に加入している患者において、医療費や死亡率には両群に差は認められませんでした。
Ryskina KL, Yuan Y, Polsky D, Werner RM. Hospitalist Vs. Non-Hospitalist Care Outcomes and Costs for Medicare Beneficiaries Discharged to Skilled Nursing Facilities in 2012–2014. J Gen Intern Med. 2020 Jan;35(1):214–9.
いずれにしても、ホスピタリストの存在は、外来や在宅診療での「主治医」と病院治療の「分業」を意味していると思います。一種のチーム医療のチームの一形態ですね。
日本では開業医が病院で主治医になることはあまりないと思います。病院の「主治医」と外来の「主治医」は同一の人物のこともあれば、別の人物ということもあります。が、「主治医」というコンセプトそのものは病院内外で強く残っています。
ぼくも日本で研修医をしていたときは、「医者は主治医観が大事だ」と指導医に何度も教わりました。
辞書によると、「主治医」とは「主となって治療を受け持つ医者。また、かかりつけの医者」と書かれています(精選版 日本国語大辞典 小学館 2006)。同書によると、尾崎紅葉の「金色夜叉」にも「主治医」という言葉が使われており、明治時代からこの言葉は広く使われていたことが推察できます。
病院における主治医は、必ずしも外来のかかりつけ医ではありません。ただ、いったん、主治医を引き受けたらその患者のケアはヒャクパー主治医が意思決定し、そして決断し、そして責任を取る、となります。これが、ぼくが教わった「主治医観」です。
「主治医観」をしっかりもった主治医は、入院患者のケアについていつでもどこでも責任を持って対応しなければなりません。夜中や休日でも病棟からの呼び出しには対応しなければなりませんし、患者や家族からの問い合わせにも答えなければなりません。気持ちの休まる時間はまったくないのです。
入院患者のケアだけではありません。ぼくが知る多くの開業医が、同様に強い「主治医観」をもって、1日24時間、1年365日、患者の問い合わせや急な症状などに対応しています。それこそ気の休まるときは全くありませんし、携帯の電波が届かないところにもいけません。お酒も飲めず、睡眠時間は削られ、家族の負担も相当に大きくなります。
ぼく自身、かつてはこのような「主治医観」を美しいものだと思っていました。主治医たるもの、患者の健康と安全には100%の責任を取らねばならない。いつだってどこでだって、自分の患者のピンチのときには駆けつける。そういう態度を保とうと思っていました。
すぐに無理だと気づきました。
まずは、出張。新型コロナで激減しましたが、出張しているときには主治医のぼくはほとんど対応できません。患者さんからのメールがあっても「容態が悪ければ、救急外来に行ってください」みたいな対応になりがちです。海外出張ともなればなおさらです。最近は飛行機内でもネットが通じるようになりましたが、ちょっと前までは機内ではネットが通じませんでした。長いフライト時間内ではぼくはまったく患者の問い合わせに対応できません。
ぼくだけではありません。強固な「主治医観」論を主張する人でも、出張のときには全く対応できていないのが分かります。これまで、学会発表やシンポジウムのときに「自分の患者が困っているので、申し訳ないけど中座します」と席を立つ人を見たことがありません。自治体や国の会議、教授会とかでもそうですね。まあ、電話がかかってきて電話対応くらいはするかもしれませんが(ぼくもします)。
感染症内科は他科からのコンサルトが多く、病院内での仕事はほとんど「主治医」ではなく、「コンサルタント」としての仕事です。感染症を合併していそうな患者の相談などを受ける時、「この患者さんではこういう検査を提案します」とか「この治療ではいかがでしょう」と回答するのですが、そのとき「主治医がいないので対応できません」と言われることが多々あります。本当に多いです。
主治医、なにしてるの?と思いきや、「今、外勤(外の病院でバイト)です」とか「今週は学会でいません」とか、そういう回答が病棟当番の研修医から返ってきます。でも、感染症の急ぎの対応だから、返ってくるまで待っているわけには生きません。では、連絡してください、と言うと「それはちょっと、、、」といかにも嫌そうな返事。外出先に連絡したりすると、主治医がすごく嫌な顔をするんですって。
もちろん、今日、どの医者だって携帯電話くらいは持っています。外勤先の病院であろうが、出張先であろうが、患者の急変に対応するために意思決定が必要ならば、電話をして確認すればいいだけの話です。ぼくだったら、ぜひ電話で確認してほしいです。自分の患者、心配ですから。
ところが、主治医に電話、を嫌がる当番医はとても多い。じゃ、その当番医が責任をとって意思決定してくれるかというと、それはしてくれない。「ぼくは主治医じゃないので」と言われます。
なんだ、つまるところ、「主治医観」とか偉そうなことをいっても、それは恣意的に都合良く使われてる言葉に過ぎず、患者のケアの質に寄与してないじゃないか。この手の事例があまりに多いことに気づいたぼくは、「主治医観」といういかにも正しい概念っぽい言葉の欺瞞に気づいたのでした。
百歩譲って、外のバイト先が目が回るくらい忙しいバイト先で、1分1秒の電話の対応時間もない、という医者がいたとしましょう。しかし、そのようなバイトをしながら病棟の患者の「主治医」もやる、と決めた以上、その労働形態のリスクについてはちゃんと理解しておくべきです。病棟の患者が急変した時、意思決定できる人が誰ひとりいない、では困ります。「いざとなったら、俺は忙しすぎて電話に出れないかもしれない。そのときは、お前が意思決定しろ。俺が責任を取る」。これが本当の「主治医観」ではないでしょうか。
いや、多くの場合、大学病院の勤務医のバイト先は、わりと緩やかで自由時間もあったりします(例外は多々あるでしょうが)。それでも電話されたくないのは、せっかく院外にいるのだから、病棟のことで俺様の邪魔をしないでくれ、という俺様心だったりするわけです。だったら、病棟当番に意思決定を任せるかといいえば、それはしない。「何かあったら誰が責任を取るんだ」というわけで、責任を取る度量はない。けれども、いちいち煩わしいことに巻き込まれたくない、わけで、これじゃ「主治医観」の理念が泣いているわけです。
もちろん、こんな「なんちゃって」な主治医観の持ち主ばかりではありません。いつでもどこでも、誠実に患者対応をする模範的な主治医だってたくさんいます。日本にはとくに多いと思っています。
それとて、問題がないわけではありません。
一つには、その主治医の生活の質(QOL)が下がってしまいます。まあ、「QOLくらいなんだ。患者のために私生活を犠牲にできなくて、なにが主治医だ」という覚悟をお持ちの方も多いとも思います。しかし、その一方で、そういうしわ寄せは家族に向かっていく事実にも自覚的でなければいけません。結局、患者ケアに費やされる膨大なエネルギーと時間は、家事や育児などを全部パートナーにお任せ、な構造でしかなしえなかったりするからです。
それに、いくら本人はそれでよいと思っていても、QOLがだだ下がりした主治医は、医師としても十分に機能できない可能性があります。一つは睡眠不足。これが判断力の低下やミスを惹起しかねません。あとはコミュニケーションの問題。患者に全身全霊打ち込む主治医は、それだけ患者のために頑張っているんだ、という強い自負を持ちがちです。それはまあ、いいのですが、ときにそれが周囲の医療者に対して狭量になってしまいがちな空気を作ってしまいます。看護師など、他の医療者が「〇〇さんにはこうしたほうがいいのでは」と提案しても、「何を言うか。おれが主治医なんだ。文句あるか」となってしまうのです。もちろん、主治医だから必ずしも正しい判断ができるという保証はありません。他の医療者の意見に耳を傾けなくなると、診療の判断そのものを間違えかねません。
前述のように、ぼくら感染症医は主治医というよりも、コンサルタントとして機能することが多いです。内科系でも外科系でも、感染症のプロが参加したら、感染症の診断、治療、予防に専門性が生じるので、自分の患者のアウトカムが改善する可能性は当然高まります。なので、長くぼくらのサービスを利用してくださっている主治医の先生方は「熱が出たので、感染症内科、診てください」とすぐに呼んでくださいます。
が、大学病院は人の入れ替わりが激しいので、着任直後で、まだ我々の存在を認知していない医師もおいでです。感染症内科が「この広域抗菌薬だと薬剤耐性菌や合併症の懸念があるので、もう少し狭い抗菌薬をご提案します」と申し上げると、気色ばんで「お前たちは主治医じゃないから、そういう無責任なことを言うんだ。何かあったら、誰が責任を取るんだ。ここはメ○ペンじゃなきゃだめだ」とお叱りを受けることもあります。
もちろん、コンサルタントであろうと、患者のアウトカムには責任を取ります。プロですから。ですが、このような「主治医観」が強く出すぎてしまう医師にありがちなのが、「主治医こそが患者の責任を取る。他の医療者は所詮、患者については無責任なものだ」という観念です。だから、自分以外の医療者の意見に耳を傾けることができない。
しかし、すべての領域においてトップクラスの知識や経験、技術を持つことはどんな天才医師であってもできないことです。ぼくたちも、ゴッドハンドと呼ばれる天才外科医や、その領域では知らない人はいない、超有名な専門医たちとお仕事をさせていただいています。が、そういう「天才」と呼ばれる医師たちでも、感染防御や診断、治療については研修医レベルの知識もない、ほとんど素人だったりすることは珍しくありません。まあ、その領域を極めた医師であれば、他の領域に注力する余裕がないのはむしろ当然とも言えるわけでして。
でも、このような歪んた形の「主治医観」を形成してきたのは、主治医のせいばかりとは言えません。むしろ、コンサルタントのほうにも反省すべき点は多いとぼくは思います。
米国のコンサルタントに比べ、日本のコンサルタントはとてもやっつけ仕事が多くてびっくりします。場合によっては患者すら診ないコンサルタントも多いです。CTの画像だけ見て、「これは間質性肺炎だと思いますけど、念の為メ○ペンも投与しといたらどうですか」みたいな、テキトーなコメントを残すコンサルタントのなんと多いことか。なるほど、こんな雑なコンサルタント業務を目にしていたら、「やっぱり信用できるのは主治医だけ。所詮、コンサルタントは、自分の患者以外はちゃんと診てくれない」と言われても仕方ありません。
そう、これって同じ問題の裏表の関係にあるのです。
主治医は、全身全霊をかけて自分の患者のケアに邁進します。そのことが皮肉にも、他科から受けた相談に対して、冷淡にさせるのです。「あの患者は俺が主治医じゃないからな」と手を抜き、やっつけ仕事をするのです。自分が主治医を担当している患者のようにきちんと診ないのです。それを受けて、相手方の主治医は「やっぱりコンサルタントはちゃんと患者診てくれないな。最後は主治医の自分がしっかり責任を取らなきゃな」とコンサルタントを軽蔑するようになります。こうして、脳内の観念的な「主治医観」はますます膨張していくのです。
繰り返しますが、患者のアウトカムに責任を持つ「主治医観」は美しい理念です。が、ここまで説明してきたとおり、その主治医観という観念が美しいがゆえに、ピットフォールも多々あります。ここが悩ましいところです。
なので、極論を申し上げます。ぼくは「主治医観」というものはもはや、消失しなければならない概念だと思っています。「消失」という言葉が厳しいのであれば、「昇華」すべき概念だと言うべきでしょうか。
それこそが、「チーム医療」です。チーム医療は個人プレーの「主治医観」よりも上位の概念として、「チームで患者のアウトカムに責任を取るプロフェッショナリズム」という構造を持ちます。
この場合、チームの構成員が主治医か、主治医でないかは関係ありません。全てのチームの構成員が患者のアウトカムに十分に責任を持っています。もちろん、ケアのリーダーは主治医であり、チームを統括したり、調整したりする機能を持っています。が、主治医とそれ以外の医療者には上下関係や、責任の多寡はありません。主治医に意見があれば他の構成員は意見を言ってもよいですし、言うべきです。
コンサルタントが当該患者のケアに参与する場合は、手抜きは許されません。全力で自分の専門性を活用して患者のアウトカムに寄与しなければなりません。「自分は主治医じゃないから、適当なコメントでいいや」とか「あの主治医はメ○ペンが大好きだから、そこは忖度して主治医の気分がよくなるようなコメントでお茶を濁してやろう」といった、非プロフェッショナルな態度をとってはいけません。
もちろん、コンサルタントが「責任を持って仕事をする」というのは、チームの「ブラック企業化」を意味しているわけではありません。コンサルタントは患者のアウトカムに寄与すべきですが、逆に言えば、患者のアウトカムと関係ないところにまでエネルギーを消耗すべきではありません。
例えば、ぼくらがある患者について相談を受け、診断をつけ、治療はこういう薬を○週間、と推奨したとします。患者は容態が改善しており、あとは治療を完遂するだけです。この場合、ぼくらは「では、なにかご不明な点があったり、患者の容態に予期せぬ変化があった場合はまた呼んでください」とフォローを終了します。
ここで、ときどき絡んでくる主治医がいて、「感染症内科は治療に参加したんだから、感染症の治療が終了するまで毎日患者を見に来るべきだ」とおっしゃる方がおいでです。もちろん、人員に十分な余力があり、サポートしている患者数が少ない場合はそれも一つのやり方でしょう。しかし、現実には診なければいけない患者数は多く、人員には余裕がありません。患者のアウトカムを十分に予見できるまでサポートしたら、あとは不測の事態に備えることで十分に生産的な仕事はできていると思います。実際、その後、別の感染症を起こして再度、ご相談を受けることもしばしばです。
もちろん、相談を受けた場合、患者が改善していることを確認したりするのは当然です。が、最後まで主治医と伴走してついていくのは生産的とは言えません。その主治医だって、患者が退院した後は、自分の外来でフォローしないこともしばしばあるのです。そのときは外来担当の開業医にケアをバトンタッチするのです。これこそがチーム医療であり、チームとして有機的にケアが継続されていれば、「一人の人物」がずっと継続して患者をケアし続ける必要はありません。
「ケアの継続性」はとても重要なコンセプトで、特にプライマリ・ケアの領域においては重要視されます。実際にはプライマリ・ケア以外の領域でも重要な概念だとぼくは思います。しかし、「継続性」とは一人の人物(主治医)が継続してその患者をケアしていくこととは限りません。というか、そんなこと、誰にも保証できないじゃないですか。主治医にも引っ越しや転勤もあるかもしれないし、その医療機関をクビになる可能性だってありますし、病気になったり死んだりすることもあります。ある人物の属人性に依存した「継続性」は脆弱ですし、時代遅れでもあります。「継続性」もチームによって確保されねばならないのです。
「僻地医療」においても、人材確保は重要です。よって、週末や休日は他の医師がカバーに行ったり、学会参加などの勉強の機会が確保されていなければなりません。死ぬまでその地にいなければならない、は多くの医師にとっては重圧ですし、家族をもっていたり、進学を控えた子供を持つ若手医師にとっては特に重圧です。このような属人的な「継続性」を強制したら、結局の所、断念、立ち去りという現象が一定の頻度で起きますし、それでは「継続性」そのものが破綻します。
だから、「継続性」は属人的な「主治医観」ではなく、システムによって保証されねばならないのです。在宅診療などもグループ化されてきています。属人的な頑張りは美しいですが、それを根拠に「継続性」を担保するのは危険です。
「主治医観」は要らないと言いましたが、プロフェッショナリズムは絶対に必要です。主治医であろうとなかろうと、患者のアウトカムには責任を持たねばなりません。主治医であっても他の医療者にぞんざいな口のきき方をしてはいけませんし、コンサルタントを卑下してもいけません。そういうのも含めて「プロフェッショナリズム」です。
繰り返します。主治医はチーム医療のリーダーであり、一構成員です。それ以上でもそれ以下でもありません。なのに、他の職種も「主治医だったらなんとかしろ」と主治医に過度な、スーパーヒーローとしての役割を要求します。主治医だったら患者についての全ての問題を解決せねばならないのです。
あるとき、うちの科で担当していた患者が病棟で暴れだしたことがありました。そのトラブルについてぼくはあとになって報告を受けたのですが、そのとき病棟の看護師長から苦言を呈されました。
「先生の科のA先生、主治医のくせに、患者が暴れていても、全然止めてくれなかったんですよ」
ぼくは反論しました。
「それは違います。主治医、、、いや、そもそも医師は暴力に対抗する能力なんて持っていません。暴力をふるう患者がいたら、医療者は普通に逃げるべきです。そういういときのために警備員がいるんでしょう」
「岩田先生は理屈っぽいからそういうことをおっしゃいますが、普通、主治医だったら暴れる患者を抑えたりするでしょう」
「ご指摘のようにぼくは理屈っぽいですし、加えて日本の医療現場の「普通」をよく理解していなかったりしますが、「普通」がなんであれ、とにかく医師は護身術だの、それ以外の格闘技だのの能力を持っていません。暴れる患者に立ち向かっていって、抑えつける能力は担保されていませんし、それは職能でも職責でもありません。暴力に対抗すべきは、暴力に対抗する職能と職責が与えられている、警備員です」
もっとも、日本は平和な国なので、アメリカみたいに警備員が筋肉ムキムキで手錠と拳銃を持ってて、戦闘格闘の能力を備えていないことも多いんですけどね。
とはいえ、いずれにしても主治医に「暴力」の対応をさせることは理不尽です。看護師や薬剤師など、他の医療者についても同様で、患者や家族が暴れたら、逃げて、自らの安全を確保して、警備か警察を呼ぶべきです。可能であれば他の患者の安全も確保すべく逃がすべきですが。
ちなみにですが、米国の病院の警備員は本当に屈強です。ぼくは一度、警備員が患者を持ち上げて、病院の門から放り出すのをみたことがあります。この患者は医療保険もお金もない患者さんで、診療を拒否されたのにも関わらず、病院でのケアを執拗に要求したのでした。米国は基本的に契約社会でして、病院と患者の関係も契約関係です。診療費の支払い能力もなく、医療保険もない患者について、病院は患者へのケアを提供する責任を持ちません。それを強要する「理不尽な」患者については、警備員に放り出されても仕方がない、という理屈です。たとえ支払い能力がないと分かっている患者であっても、それでも医療が提供される日本の医療機関とは全然、考え方が違うのです。そっちのほうがよいとは少しも思っていませんが。
いずれにしても、主治医観とは、主治医自身の責任感と、周囲の過度な期待があいまって作り出した、一つのモデルです。それは昭和な労働体系では、そこそこうまく機能していました。しかし、医学が進歩し、一人の医療者がすべての医療面で高い質を担保できなくなった令和の現在、主治医に全部押し付ける属人的なモデルは明らかに時代遅れです。主治医は幻想的な主治医観の重圧から開放されるべきですし、周りもそれを要求してはいけないのです。これこそが、「働き方改革」のひとつの形です。
今、書いている本の一部です。長いです。
新型コロナウイルス感染症界隈では、普段、感染症系の書類を書いたことがない人も、感染対策に駆り出されて書類作成をお願いされました。あまりに無駄が多くてうんざりした人も多かったのではないでしょうか。これは「紙の」書類のみならず、コンピューター上の入力作業も同様です。
なぜ、医療の世界ではムダ書類が多いのか。
理由はいろいろだと思いますが、ぼくは最大の理由に日本社会の「努力主義」があると思っています。
日本社会における評価のポイントは「努力」なのです。頑張ったことに対して対価が与えられる。頑張ったことを評価される。その頑張りが何をもたらしたのか、はあまり関係ない。
だから、書類仕事も簡単な書式では満足できない。あれも、これも書かせないと「ちゃんと書類を書いた」ことにならない。
診療時の保険審査で「病状詳記」を書かされることがあります。あれも、保険審査で通すべき根拠が明示されてればいいわけで、別にダラダラと長く書く必要はないはずなのです。しかし、短く書くと「もっと長く詳しく書いてくれ」と要求してきます。長く書けば、読みにくく、わかりにくいですが、そこは構わない。簡潔明瞭な分かりやすい文章では通らない。
要するに、あれは案件が保険を通すべき案件か否かを吟味しているのではなく、「お前が汗水たらしてたくさん作文して、我々に忠義を尽くしたか」を吟味しているんです。ま、一種の「いじめ」です。本当に嫌らしい根性です。
だから、日本の役所の通知は理解しにくく、分かりにくいですよね。もっとシンプルに短く書けばよいのに、とぼくはいつも思っています。でも、だめなんです。シンプルに短く書くと「サボってるみたい」だから。弄り回して、こねくり回して、長々と冗長な文章を書くことこそが「努力の証」なんです。
医療界を含む日本社会では、無意味なブルシットジョブを嫌な顔ひとつ見せずにすすんでやる人こそが高く評価されます。これが上役への忠誠心の証明になるのです。「こんな書類、ムダじゃないですか」なんて言おうものなら、その人物の評価はだだ下がりです。その書類がムダであればあるほど、その書類を嫌な顔ひとつせずに書く態度が強い忠誠心の証になるという、、、ああ、くだらない。
だから、ぼくは日本の「評価」システムを全体的に信用していません。なぜなら、日本社会では個々人の評価活動が必ずしも個人の能力の正当な評価に役立っていないからです。ひいては組織の向上、改善にも繋がっていないからです。評価しているのは、「俺様に対する絶対的な忠誠心」なのです。
現在、様々な「新しい」評価方法が導入されています。定量的評価、定性的評価、360度評価、コンピューターによる入力、ポートフォリオなどなど。
しかし、どんなに技術的に優れた評価方法を採用しても、根っこのところで上が下への忠誠心を根拠にして評価を下していれば、同じことです。
例えば、研修医は上級医の指示、命令を忠実に遂行することによって高い評価を得ます。360度評価のときは、看護師長など周辺の職員の好みに忠実にすり合わせることが評価の対象となります。要するに、「上に気に入られること」が評価の根拠になるのです。この根っこのところが変わらない限り、どんなにサビ-でナウくてトレンディな評価方法を導入しても、だれもが忠実な奴隷化を妨げられません。
そして、そういう職場環境ではサービス残業が横行し、ムダなブルシットジョブが横行します。サービス残業やブルシットジョブこそが人の忠誠心を吟味するのに最も手っ取り早い方法だからです。与えられたブルシットジョブがムダで非合理で、意味のないものであればあるほど、それを喜んで遂行する人物の評価は上がります。「こんっなに意味のない仕事を嬉々としてやってくれるほど、お前は私に忠実なのか」というわけです。本当に必要なのは「こんな無駄な仕事を部下に押し付けているあなたは、やばいですよ」と教えてくれる(本当の意味で)優秀な部下なのですが。
ぼくが部下を評価するポイントのひとつは「ルールを守っているか」です。俺の言うことを聞いているか、ではありません。
大学病院には大学病院のルールがありますし、感染症内科内には感染症内科のルールがあります。
例えば、ぼくらの医局では午後8時以降に医局に残っているのは原則禁止です。患者の緊急対応や当直時は別ですが。しかし、何かの話し合いとかしていて、8時以降まで医局に残っていることがあります。これは「ルール違反」として叱責の対象となります。
しかし、ルールの範囲内であれば、ルールを守っていれば、上に気にいられる必要はありません。例えば、感染症の治療でもぼくが好みの治療法と、そうでない治療法があります。どちらがより優れた治療かどうかは、科学的な決着がついていません。そういうことはよくあります。
たとえぼくが好まない治療であっても、それが妥当性の高い治療であれば叱責の対象にはなりません。ガチの激論になる可能性はありますけどね(笑)。「好悪の問題」と「当否の問題」は厳密に分けることが大事です。
むしろ、上司であっても間違ったことをしていれば、それをちゃんと指摘してくれる部下の方が、評価は高いです。自分の頭で考え、議論し、上司に対してもそれを発動できるのは能力が高く、倫理的にも高潔であるからです。もちろん、ただ上に楯突いているだけの反抗的な態度が高評価の根拠になるわけではありませんけれども。
ぼく自身がとても反抗的な人間なので(笑)、反抗的であることそのものは評価を下げる根拠にはしていません。ただし、反抗的な態度にもスキルが必要です。
ただ、ふてくされているだけとか、反対ばかりしている人は「効果的な反抗」ができていません。現状が気に入らないなら、なぜ気に入らないのか、そしてどうすれば改善できるのか、それを具体的に提言できなければなりません。
それから、提言は組織や病院、ひいては社会全体がよくなるような建設的な批判でなければなりません。私はそれを気に入らない、というような、「好み」の問題で議論をふっかけるのは生産的とは言えません。
議論をするときには、論理的に整合性が取れており、相手の意見もちゃんと取り入れる形でなければなりません。議論が平行線をたどったり、相手の話を聞かないような議論は時間の無駄です。こういう議論(というか論争)をふっかけてばかりで、徒に相手の時間を奪っているような態度を摂っていればそれは評価を下げる根拠になります。チームのパフォーマンスを自ら下げるような人は、評価が高まるわけがありません。
要するに、チームパフォーマンスが上がることに寄与していれば評価は高まるのです。ただ、上層部の言うことを素直に聞いているだけではチームの真のパフォーマンスは上がりません。その場を丸く収めているだけで、ブルシットジョブはなくならないし、チームのパフォーマンスも、医療の質も上がりません。かといって、イチャモンを付けたり喧嘩をふっかけているだけでもやはりチームパフォーマンスは上がりません。
よって、ぼくは部下の評価はチームパフォーマンスの向上に寄与しているかどうかを中心に行っています。
それから、ぼくは「平等に」人を評価することはしません。人はそれぞれ、異なる属性を持っているからです。
例えば、コミュニケーション能力は、医療者の能力としては非常に重要な能力の一つです。だから、コミュニケーション能力が高い医療者を、その能力が故に高く評価するのは当然です。
しかし、コミュニケーション能力が一見低い人であっても、必ずしも低評価の根拠としてはいけません。生まれつきコミュニケーションが苦手な人はいるものです。
しかし、寡黙でコミュニケーションや議論が苦手な人でも、他に優れた長所を発揮し続けていれば、それは高評価の対象になります。すべての側面で優れている必要はないのです。
ぼくが教えていた研修医で、とても寡黙で、プレゼンも苦手な人がいました。しかし、この人に文章を書かせると、非常に上手でしかも論理的なことに驚かされたことがあります。プレゼンの上手な研修医のほうがスマートでロジカルな印象を与えていたのですが、「プレゼンの上手さ」故に論理の甘さや根拠の乏しさが隠れてしまったりするのです。しかし、この寡黙な研修医は、しゃべらせると説得力がないのですが、書かせると非常に緻密で説得力のある議論を展開するのでした。
こうして考えてみると、いわゆる「コミュニケーション能力」は論理や知識といった内科系医学の能力の欠如を覆い隠してしまうような、そんな弊害が潜んでいるとぼくは思います。そういえば、米国には、こういう「中身はないけどプレゼン上手」な研修医がたくさんいました。コミュニケーション能力があること自体は全然悪いことではないんだけど、そういう弊害には指導医は意識的になっていたほうが良いです。
コミュニケーション能力同様に慎重になっておくべきはジェンダーのバイアスやルックスのバイアスです。例えば、往々にして男性指導医は見た目に秀でた女性医師に甘くなる傾向があるように思います。自分では意識してないかもしれませんが、一種のルッキズムになっているわけです。え?俺はどうかって?そ、そ、そんなこと、、ないぞ。
最近では、ニューロダイバーシティー(neurodiversity) という言葉があるそうです。神経の多様性、ですね。例えば、アスペルガー症候群や注意欠如多動症のような、発達障害のある方は、一般にコミュニケーションが苦手だと言われます。しかし、そのような、一種のハンディキャップに周りが気づき、そこに配慮してあげることで、十分にコミュニケーションが可能になります。個々人のコミュニケーション能力をあまり強調しすぎると、こういう人たちの居心地が悪くなってしまいます。構音障害などの言語障害を持つ人の場合も同様ですね。
ぼくが米国で感染症フェローをしていたときは、後輩のフェローは難聴を持っていましたが、補聴器などのサポートを得ればそれはそれは優秀でした。様々なハンディキャップの存在は、その人物の評価を過剰に低くしてしまいがちですが、そこは評価者の知識や配慮でカバーできますし、そうすべきだと思います。
繰り返します。コミュニケーション能力は評価の対象とすべきですが、コミュニケーション能力に問題があったとしても、それを一種のハンディキャップ、と考えれば、他の優れた能力を正当に評価できます。逆にコミュニケーション能力に優れていることが、論理的思考や知識などの欠如をマスクしてしまい、過大評価をしてしまうこともあります。過大評価は必ずしも本人にとってよいこととは限らず、過度に重要なポストを与えてしまってプレッシャーになってしまったりすることもあります。これはこれで、ちょっと残酷な仕打ちです。
とにかく、「俺様に従順かどうか」「俺様の価値観に寄り添っているか」という評価基準を評価者が持っている限り、評価は正当には行われません。また、従順や価値観への寄り添いを根拠にすると、みんなが同じ考え方をする等質な集団になってしまい、これはこれでとても危険です。
多様性の尊重とよく言いますが、考え方や価値観が異なっていてもちゃんと仕事ができる集団は強い集団なのです。同じ価値観で固まっている集団は、簡単に団結できるので一見よいチームができそうですが、間違ったときに修正がききませんし、一種のカルト的な存在にもなりがちで、チームの外と噛み合わなくなってしまうリスクもあります。
うちの研修医にもよく教えるのですが、「あの人とは合わない」といって、口もきかなくなってしまう研修医がたまにいます。「あの人とは合わないけれど、ちゃんと一緒に仕事ができる」が正解です。
神戸大学病院感染症内科の後期研修のミッションは「世界のどこにいっても通用する感染症のプロになる」ことであり、世界の舞台では、価値観が同じ人と一緒に仕事をするほうが難しいくらいです。アマチュアの部活動ではないのですから、価値観があわなくてもちゃんとミッションを遂行できねば、プロとは言えません。
そういう意味では、同じ価値観を共有する、をチームの前提としている日本の医局の多くは、その精神においてアマチュアなのだとぼくは思います。
そして、多様性を認め、価値観の異なるメンバーとも仕事が遂行できるプロ集団になってこそ、「忠誠心を試す」ような無意味なブルシット・ジョブは消滅するとぼくは思うのです。
感染症内科チーフフェローの冨永理恵先生に書いてもらいました。ご案内します。
神戸大学医学部附属病院 感染症内科の冨永と申します。
当科では短期研修から専門研修を希望される方まで、随時広く募集させていただいております。
感染症に興味があるからまずは少し勉強しようかな、という方は短期研修から、Subspecialityとして感染症内科をご検討の方はフェローとして、後期研修医の方はプログラムの一環として研修可能です。
ご興味がある方は、kobeidアットmed.kobe-u.ac.jpまでご遠慮なくご連絡下さい。よろしくお願い致します。
当科研修の紹介をさせていただきます。
<当科の特徴>
[診療内容]
・900床規模の特定機能病院です。
・大学病院ならではの複雑な症例、稀な症例も経験できます。
(例えば:固形臓器移植後、同種造血幹細胞移植後、膠原病などの自己免疫疾患、原発性免疫不全、心臓大血管手術後の感染症、難治性骨感染症など)
・他科からのコンサルテーション業務が中心ですが、HIV合併症、STI、渡航者発熱などで、入院が必要な場合は主治医で診療しています。リケッチアや寄生虫症例も来ることがございます。
・COVID-19は外来自科患者さんが入院される場合は、主治医で診療しています。それ以外のCOVID-19患者さんは、コンサルトいただいた場合併診させていただいています。
・年間併診症例数は850-1000例(血液培養陽性連絡, 外来対応症例, COVID-19相談は除く)ほどです。
・他科からのコンサルテーションは常時20-30人のフォローをしています。
・血液培養陽性症例は全例確認し、併診が必要ならフォローしています。
・専門研修で来ていただく場合は、1年目は病棟中心、2年目以降から外来診療がございます。外来ではワクチン診療、結核、渡航医療やHIV患者さんを多く経験できます。未承認ワクチンなども導入しています。
・感染症研修3年目以下の医師が1人で判断することはなく、指導医クラスに必ず相談できる環境です。
・大学病院ですので、学生さんや初期研修医がローテートしてくれており、活気があります。
・Journal Clubで知識を共有しています。
[勤務スタイル]
・平日時間外はオンコール制(時間外:17:15-8:30)です。
・土日祝日は当番制です。主科入院がない場合や特殊な事情を除いては、基本的には電話相談のみです。
・大学病院の当直は月1-2回ほどです。
・専門研修の場合、アルバイト先は当科からご紹介できます。
・後期研修プログラムで研修いただく場合は、たすき掛けとして大阪和泉市の府中病院での研修が可能です。
・アルバイト先は当科からご紹介できます。
[その他アピールポイント]
・岩田先生の熱いカンファレンスを受けられます。
・教科書や雑誌の原稿など、回ってきます。原稿料は書いた人がそのまま貰えます。
・たまに、書いたばかりの原稿が貰えます。
・診療だけでなく臨床研究に興味のある方は、統計学相談なども臨床研究推進センターなど院内の部門から受けることができますし、当科でもサポートします。
・3年間のうち3か月の院外実習期間が可能です。この期間を利用してGorgas diploma course(熱帯医学)に留学され卒業した方もいます。
・頼りになる優しい秘書さんがいらっしゃいます。
[その後の進路]
・短期研修ではご自身の診療科にそのまま戻っていただきます。当科での研修が通常診療の助けになればと思います。再度感染症を深く学びたい、と思われたらぜひ専門研修として戻ってきてください。
・感染症専門研修3年を終了後の進路はさまざまです。感染症内科として働く方だけでなく、総合内科、膠原病内科、腫瘍血液内科、呼吸器内科、集中治療医、救命救急医、家庭医、研究者などいます。どの診療科でも感染症が無関係の部署はないので、研修して得られるものはあるかと思います。
現在のフェロー男女比は、男性2人、女性3人です。
まずは当科にご連絡ください。見学はリアルでもオンラインでも、いつでも受け付けております。当科の診療の様子や雰囲気を実際に見ていただければと思います。
詳しい内容や質問などあれば、個別にご相談ください。
ぜひ、お気軽にお問い合わせください。お待ちしております。
■連絡先:kobeidアットmed.kobe-u.ac.jp
■募集要項■
① 感染症フェロー(専門研修)
期間:原則3年間のフェローシッププログラム
所属:神戸大学大学病院の職員(医員)
医師年数:卒後6年目以降
募集人数:数名
勤務体制
・通常勤務:週4日神戸大学、週1日外勤先での勤務
・休日体制:完全当番制 月3-4回程度
・夜間:オンコール体制 月5-6回
・給与:大学からの給与+外勤先+原稿料
商業誌原稿の仕事が岩田から回ってくる可能性大です(監修はつきますが、原稿料はまるまるフェロー取りです)。
給与の詳細はお尋ねいただければ、具体的にお伝えします。
・外勤:週1日の外勤(こちらで準備できます)
② 内科専門医研修プログラム
期間:神戸大学内科専門医研修3年間プログラム(内科専門医Subspeciality特化研修コース)
医師年数:卒後3年目以降
応募人数:原則2枠ですが、ご相談ください。
勤務体制:神戸大学だけでなく府中病院とのたすき掛けが可能です。ご相談くだい。
③ 短期研修
期間:1か月からご相談ください。
所属:勤務元病院になります。お給料も勤務元になります。ご了承ください。
医師年数:原則卒後6年目以降ですが、ご相談ください。
募集人数:ご相談ください。
ブログを書くの、久しぶりです。
大学に異動したとき、すぐ気づいた。多くのスタッフが、体制、システム、ルール、ブルシットジョブ、上司などなど、様々な不安を抱えていることに。次いで気づいたのは、そのような多種多様な不満を抱えているスタッフたちが、直属の上司にその不満を「絶対に口にしない」ことを旨としていることであった
ぼくは驚いて、「問題があるなら、問題提起して、直してもらえばいいじゃないですか」と申し上げたら、「岩田先生、大学病院はいろいろあるんですよ」と「お前は分かってないな」といわんばかりの薄笑いとともに返されるのだった。
今も、俺は分かってない。
このような垂直的な階層構造は大学病院に限った話ではなく、日本社会のあちこちに遍在している。
ぼくはST合剤という抗菌薬の添付文書の不備を霞が関の担当官僚に指摘し、改善を求めたことがある。彼女は「こいつは分かってないな」という気持ち悪い薄笑いとともに、
「あなた以外は、だれも文句を言ってませんよ」
と返したのだった。彼女は、理論的な誤謬は無視してもよい。世間が騒いでいるかどうかだけが、改善の閾値なのだ、と非論理的に述べたのだ。
もちろん、添付文書の不備のせいで困っている人はたくさんいた。しかし、「おかみ」にたてつき、問題を提起するのはこの社会でははばかられる行為なのだ。それは「おかみ」の不興を買い、いつなんどき、なんらかの意趣返し(別名、いじめ)でやり返されないとも限らない。そのような構造の下では、現場の人々は、現場の不備や問題点に気づいていながらも、それを放置する。誰がどう見ても放置できなくなる惨劇がおきるまで。
「おかみ」にはなんのフィードバックも返ってこない。仮に、ひとりやふたりがそれを指摘しても、「特に問題にはなっていない」「他には誰も言っていない」といって問題を無視するか、矮小化する。官僚が動くときは、メディアや世論が大騒ぎして、もう引き返せないくらいの状況に陥ったとき、すなわち手遅れになったとき、だけなのだ。そして、その「大騒ぎ」がたとえ理論的に間違った騒ぎであっても、騒ぎになりさえすれば、動く。HPVワクチンの誤謬はこのように行われ、そして何年も維持されたのだった。
2001年に米国は、炭疽菌によるバイオテロに遭遇する。しかし、1990年代からバイオテロの懸念はすでに指摘され、JAMAのシリーズでそれは網羅的に解説されていた。だから、ぼくらは炭疽菌のバイオテロに驚きはしたが、全くの予想外というわけでもなかった。
米国社会にも闇は多いが、少なくとも人々は絶対に泣き寝入りはしない。理不尽な組織や理不尽な上司や理不尽なその他諸々には、ちゃんと楯突く習慣と仕組みができている。日本にはその習慣と仕組がない。「楯突く」ときは、誰もがぶん殴っても誰も文句を言わなくなった、そういう空気が醸造されたときだけだ。
よって、日本では問題解決が絶対的に遅くなる。問題点の事前想定や指摘、解決というパスウェイはなく、PDCAといったかっちょいいキーワードも大抵は空言に過ぎず、大問題が生じたときにリアクションを起こすだけだからだ。proactiveではなく、reactiveなのだ。「後手後手」になるのは当然だ。
なにか大惨事が起きたとき、「こうなることは、とうの昔から予測できていた」とメディアの取材でしたり顔で言う人はいる。が、ではなぜ予測できていたのに、放置していたのだ?という問題は、それこそ放置である。メディアそのものがそもそも、リアクティブだからで、彼らはテレビ映えする大惨事が起きないかぎり、動かない。
この構造は階層の分断がもたらす問題だ。そして、その責は階層の上下、両方にある。フィードバックを受け付けない、受け付けないかのような空気を作る上層部にも問題はあるが、見て見ぬ振りをして、安全なところに逃げているままの「下層」の人たちもやはり問題だ。両者がほんとうの意味でのコミュニケーションをとって、proactiveに動く習慣をつけなければ、日本社会はこれからもすべて後手後手のreaction社会でありつづけ、そのたびに世界から一歩、また一歩と遅れを取りつづけ、気づけば数周遅れの状態に陥っていくだろう。予防接種システムがまさにそうだった(そうである)ように。
僕は島根県生まれで、当時の島根医科大学に進学したが、同級生や先輩たちの島根の悪口が嫌で嫌でたまらなかった。当時は半数以上が県外からの入学生で、島根より田舎から来る人など稀有で、皆「もっと都会」からやってきていた。おまけに入試の日程などの関係で「第一志望」で入学して来る人は少なく、多くは「第一志望に落ちて仕方なく」島根にやってきたのだった。「こんなところに来るはずじゃなかった」という不満を隠そうともしない人は多かったし、仮面浪人して翌年、別の医学部を受験して去っていった人もいた(今から考えると、なんだったのだろう、あれ)。
時はインターネットも携帯電話もなかったし、都会と田舎の格差は非常に大きかった。バブルの残滓もあって、西洋的な生活が「ナウくて」日本の田舎は「ださい」のが若者文化的な一般解だった。今なら、「都落ち」と考え、がっくり来ていた友人たちの気持ちもよく分かるけど、当時の僕は「島根を馬鹿にしやがって」とただただ、立腹していた。
皆が島根を蔑んでいる、と思いこむと、そういう見方しかできなくなる。たまに島根を褒める言葉を聞いても素直に聞けない。「綺麗事言ってても、どうせ心のなかでは上から目線で軽蔑してるんだろ」と思えてくる。「島根の冬は寒いよなー」というわりと普通なコメントも、差別意識の表出としか思えなくなる。裏日本の山陰の人間は、日本の最下層と見られているようで仕方なかった。実際、そういう見方もされていたとは思うが、部分的にはこちらの被害妄想でもあった。
ところが、ひょんなことから英国に1年住むことになって、帰ってきたら「島根も広島も岡山も大阪も、みんな極東の島の中じゃん」とアタリマエのことに気づいて拍子抜けしてしまった。まさに日本辺境論なのだが、辺境にいるから学べる、理解できることも山程あると分かってきた。一度気づいてしまうとあとは簡単であった。
同級生たちの島根蔑視がなくなったわけではない。それは厳然として、あった。しかし、「島根の冬は寒いよなー」が島根蔑視を内意したコメントなのか、単に寒くて言ってるだけなのか、あるいは僕が「また島根の悪口言いやがって」と検閲的に評定しているのか、いずれに該当するのかを判定する根拠はどこにもない、ことには気づくことができた。人は無意識的に差別意識を抱えて生きているものだが、それを外的に判定するのはときに容易であり、ときに難しい。全例、正確にキャッチできる人は(当人含めて)一人もいない。そんなことができるのは、立場を超越した神様だけだ。
しかし、一度「検閲モード」に入ってしまうと、当方のバイアスも手伝って、どれも島根の悪口にしか聞こえなくなってくるから不思議である。しかも、全会話を「検閲するため」に耳をそばだてているから、他のコンテンツが入ってこない。まったく入ってこない。これは宮崎駿の映画「風立ちぬ」を見た禁煙学会の人が「喫煙シーン」しか目に入ってこなかったのと同じだ。喫煙が健康に悪いのはそのとおりだが、そのことばかりに集中していると、もっと大事(なはずの)戦争や、自然災害や、当時死に至る病だった結核のことなど、放ったらかしになってしまう。これが検閲モードのリスク、その1.
リスクその2は、自分自身の悪口モードに甘くなってしまうことだ。冷静になって考えてみれば、僕だって別の場所に行けば結構、文句たらたらだったりするのだ。「大阪は皆声がでかくてうるさい」とか「東京は水がまずい(今は美味しくなりました)」とか。自分が「検閲者」のつもりでいるから、ついつい無意識のうちに他者に対して毒をはいていても、気づかない。あるいは「虐げられた立場」だから、何を言っても許される、と勘違いしてしまう。もちろん、そんな特権、ぼくにあるわけないのだが。
島根県人ゆえに差別される。そんなことが許されて良いはずはない。事実、島根医大卒業生は都会の大学の医局に入局すると、当該大学卒業生より冷遇されることはしょっちゅうだった。これが差別だ。不当に給料が低い。不当に出世を妨げられる。嫌がらせをされる。断固として、こういう不正にはあらがわねばならぬ。これは、ど真ん中の問題だ。
学者であれば「島根における差別の構造」というテーマで「検閲モード」に入ることも妥当だろう。しかし、上記のような2つのリスクがあることにはかなり自覚的でなければならないし、多くの人はこうしたリスクに簡単に陥ってしまう。僕が簡単に陥ったように。実際、僕は後に米国に渡るのだが、滞在期間中、アメリカの悪口をいうことしょっちゅうであった。極東の差別され続ける東洋人としては、アメリカ人の悪口くらい、当然だと、という気持ちもあったのだが、その指摘は妥当なときもあれば、(今から考えると)「言いがかり」にすぎないことや、そもそもアメリカ特有の問題ではなく、どこにでもある問題を「アメリカ固有の問題」とすり替えていたものもあった。いずれにしても、自分が検閲者という特権的な立場にいる、と勘違いすると起こりやすい誤謬であった。そんな特権、だれにもないというのに。
世の中の価値観は時代とともに大きく変わった。都会が偉くて、田舎がダサい、と本気で思う若者は相対的には減ってきたし、今では島根はマニアが集うパワーなんとかだそうで、人気の観光スポットになっている(相対的にコロナも少ないし)。島根大学医学部は優秀な教員が集い、一定の学生から高い人気を誇るようになった。そもそも、ネットその他でグローバル化やフラット化が進んで、今やどこに住んでいてもそれほど生活の質に大きな違いはない。島根に対する差別はあったし、今もあると思うが、それは確実に、大きく減少している。理由はいろいろだろうが、とにかくよいことだ。しかし、その減少に僕の「検閲」は少しも寄与してこなかったし、ひょっとしたらそのスピードを弱めていた可能性すら、ある。反省している。
本当に同級生というのは素晴らしいもので、「島根の悪口ばっか言いやがって」と怒っている僕に、「そうとばかりは言えないよ。島根の素晴らしさも多くは甘受しているよ」と諌めてくれた人もいた。だが、1年生のときは、僕はそういう声に耳を貸さなかった。自分が気づくまでは、気づけないのだ。故に、この文章も何かを変えようと書いたものではない(変わらないし)。ただの備忘録である。
福岡放送のテレビ番組に本日出るが、昨日、その打ち合わせでいろいろお話した。自分の思考を整理するためにも、そのときのコメントをここにまとめておく。もちろん、すべて私見である。なお、これはあくまでも自分のためのメモなので、専門用語などは詳しく説明していない。不明な用語その他は各自ググっていただきたい。
新型コロナを感染症法の2類相当(実際には新型インフルエンザ等感染症)から5類にすべきか、という質問をしばしば受ける。そのたびに、「そこはさしたる問題ではない」とお答えしている。
そもそも、「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律」(いわゆる感染症法)が施行された1999年から、僕はこの法律に大いに不満だった。この法律は新たに勃発する感染症が国を脅かした場合にいかに封じ込めるか、という「感染管理」と、過去に大きな人権侵害をもたらしたエイズやハンセン病といった「人権」問題のバランスをとるために作られた法律だ(と僕は考える)。軸となるのは「隔離」と「人権」のバランスであり、ほとんど、そこしかない。例えば、個々の患者のケアという観点はほとんどない。
感染症法ができた当時は今と異なり、「2類」感染症は消化器由来の感染症だった。2類感染症は指定医療機関に入院するのだが、当時、ぼくが勤務していた病院付近の指定医療機関には感染症の専門家はおらず、治療のスペックも乏しかった。隔離するための「箱」たる病室しかなかったのだ。だから、例えば腸チフス患者を診断したときも、「患者の状態が安定していない」という理由で指定医療機関には搬送せず、そのまま自施設で治療していた。そもそも腸チフス、隔離とか必要ないし。医療機関を指定し、「箱」を用意し、予算を当てれば感染対策になる、という当時の厚労省官僚たちの臨床感染症に対する無理解がここにある。
2014年に世界中でエボラの驚異が叫ばれたとき、患者を入院させるはずの「その」1類指定医療機関にはたいそうな予算をかけた指定病棟、指定病室があった。患者を病室に送るための専用のエレベータがあり、そのエレベーターにも陰圧がかかるようになっていた(!)。そんな大掛かりな「箱」はあるのだが、感染症に詳しい常勤医はいなかった。そもそも、エボラ診療にはかなり高度な集中治療が必要になるのだが、その「箱」には人工呼吸器を入れるとか、透析をするとか、そういう前提をまるで無視したただの陰圧がかかるだけの「箱」だった。ポール・ファーマーが指摘する、「ケアよりも管理」の精神であり、これではエボラが本当にやってきたら大変だな、と思ったものだ。
感染症法の「新型インフルエンザ等感染症」は「新型インフルエンザのように国民が免疫を獲得しておらず、急速に全国的に蔓延し、国民の生命・健康に重大な被害をおよぼす場合」に分類される。が、指定医療機関がいっぱいになり、入院どころか病院受診すらできなくなるほど患者が急増した場合、のような想定がまるでなかった。いわゆるプランBの欠如である。新型コロナでも結局は「新型インフルエンザ(これは2009年に来たやつじゃなくて、死亡率2%くらいの本当に怖いやつだ)」モードの対応では対応しきれなくなり、宿泊施設での療養が許容され、自宅での療養が余儀なくされた。もはや、2類か5類かはどっちでもよい、というのはそのためだ。
でも、5類にしないと保健所の業務が大きすぎて、、、という反論もある。保健所の業務が大きすぎるのは単純にデータマネジメントの問題であり、これもまた2類か5類かの話ではない。例えば、「梅毒」は5類感染症だが、未だに紙で届け出を「FAXで」送り、それについて保健所が「電話で」主治医に問い合わせしてくる、という昔ながらの方法で対応がされている。主治医は面倒くさかったり、忙しかったりして、しばしばその報告を怠ってしまう。だから、「梅毒」の実態を知るには感染症法ではなく、むしろレセプトデータを活用したほうがその実態を理解しやすいのであるが、レセプトデータの情報公開は今も不十分で、僕らは実態把握に今も難渋している。
この問題は、電子カルテや検査データを自動的に吸い上げるeCRやeLRといったテクノロジー(と匿名化された医療情報を活用、共有するHIPPAのような法制度)こそが根本解決作だ。それこそが公衆衛生上の目的に合致する。つまりは正確なデータ、迅速な情報収集、そして解析である。保健所職員が汗をかき、消耗せねばならないのは、単純にこの数十年、日本がそういう仕組みづくりを怠ってきたからである。
HIPPAが米国にできたのは20世紀末のことで、当時は多くの米国の病院は紙カルテで、情報はFAXで送っていた。当時はまだ日本のほうが「ハイテクの国」と考えられていて、ニューヨークの病院に勤めていた僕は「アメリカはなんてローテクなデータマネジメントをしてるんだろう」と嘆いていたくらいだ。日本の医療保険行政はそのときからピタリと時計の針を止めてしまい、世界各国はデータマネジメントを進化させていく一方で、日本は今も紙とFAXであり、多くの保健所職員や病院関係者や官僚は「それのほうがよい」とすら信じ込んでいる。まさに井の中の蛙である。
結局、新型コロナを5類相当にしても同じシステム、同じエートスを保っている限り、保健所の疲弊は止まらないのだ。繰り返すが、そこはポイントではない。
結局の所、「感染症法」は抜本的に作り直さねばならないのだ。感染症は「管理」と「人権」だけでなく、ケアが必要で、それも規模に応じた変遷が必要だ。「〇〇病」が指定医療機関でみる病気なのか、もっと巨大な規模でケアする病気なのかは、流行の規模に大きく依存する。日本にはその仕組がなく、現在のような新型コロナのケアのあり方はなし崩しに結果的にそうなっただけで、最初から狙ってやっていたわけではない。状況が変化してから「どっこいしょ」と対応しているから、「後手後手」になるのは当たり前なのである。
という前提を踏まえた上で、「オミクロン」をどうケアするのか。これは難問である。
新型コロナは風邪みたいなものだ、と主張し「5類相当にせよ」と主張は、「どうせ自分がかかっても軽症で終わるのだから、こんな行動制限なんか取っ払ってくれ」という主張だ。そう主張したくなる気持ちは分からないではない。特に、行動制限が収入や生活の圧迫に直結している飲食店関係、音楽・芸能関係、旅行関係といったステークホルダーたちにとっては当然の主張とすら、いえる。
特に新型コロナの場合、重症化、死亡化する層と、そうでない層のギャップが激しい為に「そうでない層」に当然の不全感が残るのである。少数の健康のために、大多数が苦労しなければならないのは、割りに合わない、という考えである。
しかしながら、そういう「行動制限を取っ払って」しまった国々がどういうことになったのかを見れば、話はそう簡単ではないことは明らかだ。
もっとも痛い目にあったのはアメリカ合衆国である。アメリカはトランプ大統領時代にかなりコロナを看過し、行動制限も不十分なままだった。患者が激増しても「重症者、死亡者は増えていない。アメリカでコロナが多いのは、ちゃんとした検査体制の賜物だ」と大統領は嘯いたものだ。が、新型コロナの重症者、死亡者は時間のズレをもって「あとになって」生じてくる。
結局、アメリカは新型コロナでもっとも死者を出した国になってしまった。本日の段階で、アメリカでコロナの死亡者は86万人以上。人口100万人あたりの死亡者数でも2500人以上と、大量の死者が発生してしまった。2020年の米国での死因第3位がCOVID-19である。到底、看過して良い問題ではない(https://okino-clinic.com/blog/1092/)。
それはアメリカの話で、日本ではそんなに死んでない、という主張も多いが、これも間違いだ。症例あたりの死亡率でみると、アメリカも日本もそう大差はなかった。小野昌弘先生もツイッターで指摘しているとおりである(https://twitter.com/masahirono/status/1479831476036329476?s=20
)(ただし、ここでは「なかった」、と過去形で述べている。その理由は後に述べる)。
86万と1万8千人ちょっと、という巨大な死亡の違いを説明するのは死亡リスクではなく、単純に感染者数なのである。アメリカは感染激増を看過し、日本はそうしなかった。その違いが決定的に両国の違いを生み出したのである。
感染者が増える、減る、は社会において発生する現象だ。医療機関の中では感染者数に介入できない。感染者を増やすのはウイルスの属性と、社会における人の行動によって決定する。ウイルスの属性「そのもの」を我々が変えることはできないから、社会活動の制限が感染数に大きく寄与する。日本でコロナ死亡が少なかった最大の原因は、社会における感染数制限である。
ただし、ここで勘違いしてもらっては困るが、我々のような専門家は徒に社会活動の制限のみを希求していたわけではない。我々だって社会の構成員である。皆さん同様に人生を楽しみたい。食事や音楽やスポーツや、その他諸々の行動も楽しみたい。
当初は、どのような社会活動の制限がコロナの増減に大きく寄与するか、よく分からなかった。だから、第一波あたりでは、ほとんどすべての社会活動を大きく抑制するしか方法がなかった。しかし、その後、「これをやっても感染はそう増えない」方法も少しずつ見つかっていった。映画館で静かに映画を見るだけなら、感染リスクは大きくない。野外のスポーツ観戦も同様。音楽鑑賞も一定の条件満たせば問題なし。落語や歌舞伎、文楽、や能といった伝統芸能も可能。キャンセル、中止が続いていたこうした活動も、「やってもいい条件」が検証され、その検証に基づいて活動が再開された。条件の検証を可能にしたのは科学的知見だし、その判断をもたらしたのは多くの専門家の監修作業だった。
繰り返す。感染症のプロたちが「自分たちの生活を脅かしている」と誹謗中傷されている。そういう側面があるのは認めざるを得ないが、多くの活動再開に寄与したのもまた専門家の見地である。そういう側面を無視するのはフェアとは言えないだろう。
コロナが増えたら行動抑制はやむを得ない、が2020年のデフォルトの対策であった。感染者が増えたら必ず重症者が増え、重症者が増えたら必ず死亡者が増えるからだ。世界では500万人以上の人命がコロナのために失われている。決して「ただの風邪」でもなく「インフルエンザ」ですらない。数千万人規模の命を奪った「スペイン風邪」レベルのインフルエンザは別だが、当然、パンデミック・インフルエンザのときにも「日常生活を普通に」とはいかないだろう。
2022年の現在は、1918年のスペイン風邪のときとは大きく異なる世界だ。平均余命は劇的に増大し、健康で長生きできるチャンスがずっと大きい世界である。「世界大戦」などで何千万もの人命が失われることを容易に許容しない世界でもある(そうであることを願っている)。端的に、命に対する価値が増大している。1918年であれば、新型コロナ死亡リスクが最も高かった「80代以上の高齢者」は「死んでも悔いないくらいの長生き」であった。現在はそうではない。少なくとも、それは皆に共有される、コンセンサスを得た価値観ではない。
ところが、2021年になって事態は大きく変貌する。効果的なワクチンの導入だ。これは多くの専門家にも予想外な前進だった。少なくとも僕は、ここまで効果的で、安全なワクチンが、こんなにスピーディに開発、導入されるとは予想していなかった。ワクチンは自らの感染リスクを減らし、発症リスクを減らし、重症化リスクを減らし、死亡リスクを減らし、他者への感染リスクも減らす。新型コロナで介入すべき、ほとんどすべてのポイントでワクチンは効果的だ。ワクチンの普及のおかげであれだけ病床を埋めていた新型コロナ重症の高齢者たちは姿を消し、死亡者も減った。ワクチンがあれば、行動制限も緩和でき、「これまでの生活」も取り戻せる。そういう大きな期待が高まった。
感染力が強く、重症化リスクが高いといわれたデルタ株が流行したときもワクチンはパワフルだった。感染者数は激増したが、死亡リスクはかなり減った。リスクの高い高齢者たちがワクチンによって守られていたからだ。それでも、社会における行動制限を全部取っ払う、というのは流石にリスクが大きすぎる。数の論理、分数の論理である。ワクチンによって死亡率は下がったが、感染者数が多すぎると、分母が巨大になり、「率」が小さな感染症であっても分子は相当数になる。デルタの流行でひと夏で3千人くらいの人命が日本で失われた。特に、感染者数が増えすぎて、医療機関を受診できない、自宅待機のままの患者が重症化、死亡したのは大きな問題だった。これは先進国ではとうてい許容できない悲惨である。この段階でも、「コロナは風邪のようなもの」と放置することは、理にかなった判断ではない。
ここで、比較的大きな進歩が訪れた。抗体療法や内服薬など、「コロナの重症化を防ぐ」治療が開発、導入されたことだ。これまでは「重症者の死亡を減らす」、重症者に特化した治療法は複数開発されていた。しかし、その効果は限定的で、死亡リスクが劇的に下がることはなかった。感染者が増えれば、重症者が増える、重症者が増えれば、死亡者が相当数発生する、の基本構造に大きな変化はなかったのだ。ところが、感染者が増えても重症者が増えない、を可能にするかもしれない治療薬が開発されたのだ。これは大きい進歩だ。感染者を早期発見し、特に重症化リスクが高い患者にこうした治療を提供すれば、「感染者が増えても大丈夫」な社会、つまりは社会抑制がかなり解除できる世界をもたらすかもしれない。もちろん、その前提にはリスクの高い患者の早期診断、早期治療を可能にする「しくみ」が必要なのだが。
さて、そこでオミクロンだ。すでにオミクロンは「感染力は強く、重症化リスクは低い」ことがほぼほぼ分かっている。これまでの変異株に比べ、短所が一つ増え、長所が一つ増えた。微妙な変異株だ。
オミクロンは感染激増を起こしやすい。感染が激増したら、数の論理で、いくら重症化「率」は低くても、重症者「数」は増えてしまう。よって、感染輸入を回避し、たとえ国内に入ってきても即座に封じ込めることが望ましい。前者を一所懸命やったのは日本である。後者についてもこれまで「封じ込め」を徹底してきた国は、やはり徹底している。例えば台湾だ(https://www.reuters.com/world/asia-pacific/taiwan-urges-vigilance-after-first-omicron-coronavirus-cases-2022-01-04/)。
しかし。まったく逆の考え方もできなくはない。感染力が高いということは、封じ込めにこれまで以上のパワーを要するということだ。これまで以上の封じ込め努力が必要とされるのに、重症化リスクは下がっているから得られる利益は相対的に目減りしている。
つまり、オミクロン封じ込め対策は、(これまでよりも)労多くして功少なし、な対策なのである。
そこで。封じ込め対策をあえて徹底しない、という戦略が選択された国もある。典型的なのが英国だ。
誤解のないように申し添えるが、英国は「社会活動制限ゼロ」にしているわけではない。公共交通機関ではマスクをするように、といった「プランB」と呼ばれるマイルドな方策は続けている。また、ワクチン3回目の「ブースター」接種も推し進めている。
ただ、オミクロンに対応して社会活動制限を強化したりはしなかった。緊急事態宣言もロックダウンもなし、である。(ここが英国らしい、と思うのだが)オミクロンの激増で医療システムが逼迫し、病院が逼迫するという予測がすでになされていた、にも関わらず、である(https://www.reuters.com/world/uk/uks-johnson-will-continue-same-path-tackling-covid-2022-01-03/)。
これはボリス・ジョンソン首相の態度でもあり、覚悟でもある。これまでも、英国は何度もコロナに対して、挑戦的な対応策を取り、その都度失敗して方向転換を余儀なくされてきた。「挑戦的」であるところも、すぐに方向転換をするところも、どちらもとても英国らしいと僕は思うのだけど、それはいい。いずれにしても、英国は「医療は逼迫するだろうが、それでも現状維持で我慢すれば必ず事態は好転する(と思う)。これが最良の策である」と考えたのだ。
現在、英国では毎日100人かそれ以上のコロナ死亡者が出ている。英国人口は日本のざっくり半分だから、日本的に言えば毎日200人ペースだ。すでに英国は2020年、21年とコロナで大打撃を蒙り、ときに1日1000人以上の死者を出していたので、「そのときよりはまし」という考え方もあるのかもしれないけれど、あっさり看過してよいかといえば、悩んでしまいそうな数字ではある(https://coronavirus.data.gov.uk/details/deaths?areaType=nation&areaName=England)。
良いデータもある。一時、1日20万人以上の感染者が出ていた英国だが、感染者数は減少傾向だ。1月11日には死亡者が’379人と、相変わらずコンスタントに死亡者は出続けている。その日の入院も2286人と医療は相当逼迫しているだろう。が、「ピークを過ぎた」可能性もある(https://coronavirus.data.gov.uk/)。
IHMEの予測モデルによれば、英国の流行はすでにピークを過ぎている。現在の英国の流行は3月から4月には収まりそうだ、という。そして、オミクロンのもたらす死亡者は、2021年あたまのアルファ株の流行のそれよりもかなり少なく終わる、というのである。このモデルの予測どおりに事態が動くかどうかは分からないが、英国の作戦には一定の合理性があるのである(https://covid19.healthdata.org/united-kingdom?view=daily-deaths&tab=trend)。
一定の合理性はあるが、これを日本にそのまま持ち込めるかといえば、いくつかの留意点がある。まずはブースター。英国ではすでに3500万人もの人がブースター接種を受けているが、日本は2021年の2回のワクチン接種を驚異的な推進力で迅速に提供した。世界トップレベルの偉業である。が、なぜかブースターになるとその推進力は影を潜め、87万人しか接種していない。総人口の0.69%という低さである(https://vdata.nikkei.com/newsgraphics/coronavirus-japan-vaccine-status/)。日本では政治や宗教的理由で反ワクチンに向かう人達が他国より少ない。逆に言えば、ワクチン接種の成否は政治家と官僚にかかっている。
データマネジメントの問題もある。上述のように、コロナの感染者数増加を許容したとしても、重症化リスクを減らすためには感染者の把握と早期治療は欠かせない。しかし、日本では受診、診察、検査、治療の手続きも煩瑣で、患者が激増している沖縄では受診の予約すらままならない(https://news.yahoo.co.jp/pickup/6414920)。繰り返すが、これは単にマンパワーの問題ではなく、「仕組み」の欠如が大きな原因だ。
これに対してオミクロンは重症化リスクがそもそも低いのだから、受診は重症化リスクが高い人物に限定し、「全員受診」を前提としない、という作戦もとれる。これは09年の「新型」インフルに対して欧州の多くの国がとった対応だ。
09年の新型インフルは日本で早期受診とタミフル処方で死亡者が少なかった、と多くの「専門家」や官僚が自画自賛したが、そんなことはなくて、「リスクがなくて元気なら、家で寝ていなさい」の対策をとっていた欧州の国々でも死亡者は少なかった。この当時からデータを恣意的に扱って自分の都合の良いような解釈で科学性を無視していたツケがまわり、今、日本の感染症対策に暗い影を落としている。データの軽視、科学の軽視である。
いずれにしても、オミクロンでこの作戦は、日本の乏しいリソースにおいては有効な可能性はある。ただし、「万が一のことがあったらどうするんだ。全員受診させるべきだ」という合理的な安全策の放棄と、「万が一のための安心」の優先を重んじたら、とれない選択肢ではある。もっとも、「安全よりも安心(気分が良い)」のメンタリティーでは、そもそも英国的なコロナ対策などできるわけもないのだが。
臨床医学において、意思決定には「閾値(threthold) 」という作戦を取る。少なくとも、clinical reasoningを学んだ医者はそうする(残念ながら、日本の医者でclinical reasoningを学んだものは少数派に属するのだが)。閾値においては、「これ以上のリスクがあれば検査、それ以下なら検査しない」「これ以上の閾値なら治療、それ以下ならしない」という「判断」をとる。ベイズの定理を活用し、事前確率を活用した考え方だ。それは「一律全員検査」とか「一律全員治療」という、言ってみれば、かなり雑なやり方とは大きく異る考え方だ。
新型コロナ対策において、「社会活動制限をしないやり方」「コロナを風邪のように扱うやり方」はどう考えても無理筋だった。その根拠はすでに述べた。が、「オミクロン」の登場で、社会活動制限のコストは上がり、それによって得られる利益は小さくなっている。「社会活動制限をしない」という選択肢の閾値は下がったのである。
その下がった閾値が、「しなくてもよい」という判断にまでもっていってよいか。今はまだ、そこまで大きく大胆な判断をしてよいという根拠は乏しい。これも理由はすでに述べた。が、「しなくてもよい」可能性は開示されている。「しなくてもよい」条件を整備する根拠もある。
中国や台湾のような「抑え込み」は一つの戦略ではあるが、日本のこれまでの「態度」と現在のオミクロンの現状を考えると、日本ではすでに「抑え込み」は非現実的な戦略だ。残念なことに。が、これまでのように「感染者が増える、緊急事態宣言、感染者減る、緩める、感染者が増える、振り出しに戻る」を繰り返すのも、もうしんどい、というのも事実であろう。
だから、プランの一つとして、「抑え込みをしない、かといってこれまでの現状踏襲もしない」という新しい選択肢を取る可能性はあると今の僕は考えている。
そのために必要なのは、
1.診断、検査データの合理的で自動的なマネジメントシステムの整備(英国は、これをコロナ流行中に整備したらしい)。
2.重症化リスクの高い層に特化した診断、重症化防止に役立つ早期治療の提供。リスク低い層は診断を目指さない(つまり感染者増加も、ある程度許容する)。あと、重症化防ぐ薬の提供体制の簡素化や診療場所の増加は必須。
3.ブースター接種の普及
4.ある程度の重症者、死亡者の発生の許容(他の疾患や事故の死亡リスクとの相対化)。
5.このプランを取った場合の、功罪の科学的検証(日本に一番、欠けているやつ)。
である。明らかに大胆なプランである。肝心なのは、この出口戦略には「条件」が必要で、ただなんとなく「コロナは風邪ー」「5類でお茶を濁すー」とは似て非なるものだ、という理解である。また、上記条件が整うという保証はないため、僕が現時点でこの方向に進むべきだ、と主張しているわけでもない。「もし、この方向に進むとすれば、これが条件だ」と申し上げているだけなのだ。
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