あくまで私見だが、医者は文章書きがあまり上手ではない。特にぼくが医者になったばかりの数十年前はそうだった。
当時の医者は、そもそも患者や家族、同業者たちにさしたる説明責任を持っていなかった。なぜ、この病気だと思うのか。なぜ、この検査をするのか。なぜ、この薬を処方するのか。誰にも説明を求められず、誰にも説明しない。それでなくても読みにくい乱筆のカルテは、実は読める字で読んでも意味不明だった。日本語の医学書は過剰なまでに難解で、論理的ですらなかった。海外のテキストと比較すればその違いは明らかだった。もちろん、近年は素晴らしい若手の書き手が激増中なので、このトレンドも早晩消失することとは思ってはいるが。
少なくとも、ぼくが研修医になったばかりの頃は、分かりやすく、読みやすく、合理的で、説得力のある文章の書き手は医者の中には稀有だったと記憶している。よって、ぼくは「医学・医療系であれば、よいテキストを書けば足りないニーズを満たせるのではないか」と考えた。そりゃ、ガチな小説家とか評論家の筆には適わないにしても、狭い医療業界であれば読みやすくて理解しやすい文章で、何かをなせるのではないかと思ったのだ。ぼくの予測はあたった。研修医のときに書いた、ささやかな抗菌薬のテキストは一定の評価を頂き、その後、多種多様な書籍を出版するきっかけになった。
そんな、ささやかな自負を持っていたぼくだったが、「この人には逆立ちしても敵いませんや」とシャッポを脱いだ人がいる。それが関なおみさんだ。
関さんとは学生時代に微生物のセミナーで一緒になって以来の長い友人だ。田舎でふんわか医学生をやっていた人間には、大学教育改革を舌鋒鋭く論ずる関さんは異次元の存在だった。その後たまたま偶然に本の共著者になってしまい(「研修医って何だ?」ゆみる出版)、その文章の切れの良さ、ロックなリズムの文体に唖然とした。関さんは文章の達人なのである。
そんなわけで、本書は保健所の医師が書くコロナに関する書物なのだが、決して「お役所の文章」みたいなものを想像してはならない。一回本書を手に取り、ページを繰り出したら、最後まで読み切る覚悟を持ったほうがよい。やめられない、止まらない。読者の目はそのキレキレの文章に釘付けになること、必然だ。お休み前の一冊にはしないほうが、よい。
新型コロナで苦しまなかった人はいない。が、特に困窮を極めたのは保健所職員であろう。
医療機関ももちろん大変だ。が、「波」がピークにいたり、病床が満床になり、長期入院が必要な入院患者で満たされてしまえば、医療機関は驚くほどに静かな場所になる。もちろん、治療は続くし一定数の患者は死亡するし、そこには少しも平安はないのだが、患者が入れ代わり立ち代わりという大混乱は消失する。
プラトーになる医療機関とは違い、保健所にプラトーはない。紹介できる医療機関は潰えても、患者自体はどんどん発生する。自宅で待機する患者も様態が悪化する。なにより、一般市民からの数々の電話の問い合わせ、苦情、誹謗中傷と対峙せねばならない。厚労省の絶え間ない通知にも対応せねばならない。
医療機関の臨床医はボーカルな人が多く、テレビやネットで「どれだけ俺たちがしんどい思いをしているか」アッピールすることもできる。が、保健所の職員は概ね寡黙だ。自分たちがどのくらいつらく、しばしば理不尽な立場にいるか、アッピールする術がない。一般市民の目には「保健所って大変そうだけど、何やってるかよくわからない」ブラックボックスとなる。
本書は、「何をやってるのかよくわからない保健所が、何をやってきたのかよく分かる」、2020年から始まった保健所とコロナとの戦いを描写した「戦記」である。非常に質の高いドキュメンタリーであり、たくさんの興味深いエピソードと、躍動感あふれる文章に読者は引き込まれることだろう。同時に、本書は「保健所職員の苦労を分かってくれ」という理解と共感を求めた本なのだけど、決して理解と共感「のみ」を求めた本でないことも、すぐに読者は気づくであろう。本書は保健所の激闘を描く「戦記」ではあるが、決して「ガリア戦記」のように洗練された戦いのあり方を指南するものではない。「世間からは理解されなかったかもしれないけれど、自分たちはこんなに素晴らしい仕事をしてきたんだぜ!!」という、新型コロナ関連図書アルアルの、自画自賛の書でもない。
では、本書の正体はなんなのか。ぼくには一定の見解があるが、ぼくの口からそれは言うまい。もちろん、ぼくにも本書のテーマに見解はある。東京都では活躍したらしい、しかし兵庫県ではほとんど役に立たなかったHER-SYSについてなど、異論もある。が、本書のテーマに関する限り、それは関さんの文章から直接届けられるべきメッセージなのだ。実際、関さんからはぼくがこの書評であまり過激なことを言ってあちこち刺激しないよう、釘を差されている(釘を刺す気持ちは分かります)のだが、そんな心配をしなくても本書自体が十二分にワイルドなのである。
GHQ公衆衛生福祉局長であったクロフォード・F・サムスの言葉が本書の312ページに引用されている。
「日本の公衆衛生が進歩しないのは、専門家の意見が専門家でない者によって左右される仕組みになっているからである」
日本のXXが進歩しないのは、、、我々の胸にも突き刺さる言葉である。本書がたくさんの人々に、、、特に「世の中を左右するような立場の人々」に読んでいただく必要があるのは、そのためだ。
感染症の問題が勃発するたびに同じ物語がループし、ループし、ループし、悪質なスタンドに攻撃されているんじゃないかという錯覚に襲われることがある。本書には、この循環を打破する一撃になるパワーを持っている。できれば、一撃が「そこ」に届かんことを。
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