やっとできた。翻訳、監訳は苦痛の連続だが、終わりのない翻訳はない。ようやく終わった。
本書はまず、一人で訳そうかと思った。すぐに時間的に無理と分かり、まずは西村翔先生と山本舜悟先生に頼み、行けるだけ3人で行くことにした。いけなくなった。というわけで、少しずつ裾野を広げて、それでも本書の規模としてはかなりの少人数で訳し終えた。翻訳の質とスピードを担保したかったからだ。うまくいっていると、いいけど。
あとは、序文より。
序文
「シュロスバーグの臨床感染症学」を訳出、刊行できるのは望外の喜びだ。
内科の定番教科書といえばまず「ハリソン」を思い浮かべる方が多いだろう。「ハリソン」で一番ページを割いているのは心臓学でも消化器学でもなく、感染症だ。だから感染症のほうが価値がより高い、と主張しているのではない。が、内科領域で最もコンテンツ・リッチなのが感染症なのである。風邪、エイズ、エボラ、アニサキスなど多種多様なカテゴリーを臓器横断的に網羅する感染症の世界は、とにかくコンテンツが多いのだ。
「ハリソン」に収まりきらない、感染症のプロ向けの教科書といえば、「Mandell」にとどめを刺す。感染症後期研修医が毎日開いて勉強すべきは本書である(してますよねー)。
しかし、「Mandell」だと分量が多すぎる、、、も本音であろう。英語のハードルももちろんあるし。
そこで、本書「シュロスバーグ」だ。「ハリソン」と「Mandell」の中間にあるような程よい分量のテキストだ。しかも「Clinical=臨床」と銘打っているだけに、臨床家に必要不可欠な最低限の情報に抑えに抑えており、「知識はつくけど臨床的にはさほど重要でない」コンテンツはとことん、捨象されている。もっとも、抑えに抑えてそれでもこんなに分厚いのか!とツッコミが入りそうな気もするが、これこそが感染症の世界なのである。例えば、「感染症の疫学」は公衆衛生的コンテンツではあるが、臨床家にとって知らないと仕事ができない必須コンテンツでもある。薬理学や微生物学も同様だ。むろん、抗菌薬学、微生物学すべてを扱う必要はないが、臨床的に関係の深い事柄は扱わなければ臨床ができない。よって、厳選したミニマムなテキストなのにそこそこ分厚くなってしまう。
ときどき、「もはや教科書なんて読まなくてもよい」という意見を耳にする。これほど情報化が進んだ現在、教科書のコンテンツは遅すぎる。最新の文献をネットで入手したほうがよい、というわけだ。
短見である。情報化が進んだ現在であっても教科書の価値は少しも損なわれていないし、むしろその価値は増している部分すらあると思う。
最新の論文をサーチして、「こんなネタがある」と見つけ出すことにも、もちろん価値はある。が、ときにそれはマニアックにして周辺の「重箱の隅つつき」になってしまうリスクがある。例外事項に引っ張られて患者マネジメントをするとしばしば診断、治療で失敗する。「◎◎の所見が認められないなんとか病」というケースレポートの存在は、「◎◎の所見はめったに見られない(だから、ケースレポートはアクセプトされた)という逆説的な意味を持つのだ。やはり臨床症状は教科書的な記載をしっかり把握するのが大事なのである。治療も同様で、「なんとかマイシンで著効した症例」を根拠に一般的な治療を行ってはならない。
最新の臨床試験が後の臨床試験によりひっくり返される。珍しくないことだ。よって、何十年経っても変わらない普遍的な事項、、、教科書的記載、、、にこそ大きな価値があることが分かる。HIV感染の治療薬はとっかえひっかえどんどん新薬が登場しており、とても教科書が追いつけるものではないが、抗レトロウイルス療法(ART)の治療戦略の基本骨格はすでに1990年代に完成しており、その骨格自体は現在もまったく変わっていない。あるのは数限りない「非劣勢試験」の連打であり、革命的に既存の治療薬を上回るレジメンはまったく出現していない。なのに、我々は最新の、長期の安全性も分からない新薬にいともエゲツナク安易に飛びつく。ちゃんとプリンシプルを学んでいない、ちゃんと教科書を読むような勉強をせずに最新情報に安易に飛びつきすぎているからではなかろうか。
昨今、医学部教育では「アクティブ・ラーニング」だの、「成人学習理論」だのといわれ、古い教育手法の弊害が批判され、新しい教育スタイルが導入されつつある。アクティブ・ラーニングは文字通り積極的な学びのことだが、各医学部は少グループの議論(small group discussion ,SGD)だの、Problem based learning(PBL)だの、Team based learning(TBL)だの、プロレス団体さながらの略語を連打してアクティブ・ラーニングを推奨し、子供とは違う「大人の学習」を促している。皮肉なのは、そのような教育環境整備を手取り足取り行い、議論討論によって学ばせようというきめ細かい心配りがまさにパターナリスティックであり、学生はまことに受動的に与えられたプログラムを起用にこなし、しかし教科書をきちんと読むといった基本的な学習すらしないので基本知識がすっからかんなままでベッドサイド実習に移行し、そこで全く役に立たないという悲しい現象が起きている。本来なら、自分で教科書を吟味して質の高いテキストを手に入れ、図書館や自室で静かに丁寧に教科書を読み学ぶのが一番アクティブな学びであり、かつ大人な学びではなかろうか。繰り返すが、教科書を読み込まないような成人学習はありえない。パワポのハンドアウトだけちょいちょいと読んで「学んだふり」をしていてはダメだ。
だんだん序文が説教臭く、年寄り臭くもなってきたのでそろそろ止めにするが、要は教科書の価値は未だに高いということだ。プロの感染症指導医が絶対的に不足しており、直接指導を受けられない研修医がとても多い日本ではなおさらだ。本書が日本で日本語で出される意味は、そういうことだと思っている。ぜひ活用されたい。
2018年7月 震災と豪雨の後の見通し不明な日本にて
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