先日、近藤誠氏のワクチンに関する新著批判を「文藝春秋」誌に寄稿した。予想していたことだが、ボツにするという返事すらない。日本のメディアは基本的にポジションステートメントを演説するだけで、真実への肉薄には興味がない。日本の多くの領域がそうであるように。
ときに、先日ブログで近藤誠氏の過去について述べた。記憶を頼りに当時の記録を読まないままの論考だったが、某氏から「これでは」と「論争集」をお送りいただいた。そうそう、これこれ。おそらく98年くらいに米国で読んだと思う。引っ越しを重ねるうちに紛失してしまっていた。
読み直して、記憶を頼りにした前回の論考は概ね間違っていなかったと確認した。絶版本だが興味のある方はぜひ古本で買って読んでいただきたい(安いし)。
当時の近藤誠氏の主張は極めて現代的で、概ね正しい。まあ、がん検診有効のエビデンスが乏しい、だから全てのがん検診は意味がない、、、的な過度の拡大解釈はある。よって、全面的に瑕疵ゼロってことはないのだが、そもそも瑕疵ゼロで何十年もの時間の批判に耐える論考なんてほぼほぼ実在しない。全体的には非常によくできた主張というべきであろう。
近藤氏の主張が当時の医学界で異端、エキセントリックだったわけでは決してない。むしろ世界的には主流と言ってよいものだろう。しかし、日本の臨床医学界はあまりに遅れており、傲慢で、海外の論文や論考をまるで無視していた。井の中の蛙だったわけだ。よって日本でのみ近藤誠氏は「異端」となる。実に気の毒な話である。
現在であればインターネットが普及しているから近藤氏の主張の「裏」をとるのは容易であろう。学術界や権威が否定しても、ちゃんとした識者が裏を取れば近藤氏の主張の正当性はすぐに明らかになったはずだ。しかし1997年のネット環境は悪く、情報量もずっと少なかった。だからサポートする味方はできなかった。患者は味方になってくれたかもしれないが、科学的な観点からの論客としてのサポートはできなかった。それがなかったのが当時の近藤氏の不幸である。その後、近藤氏の主張は当時のキレとロジックを失って迷走するのだが、ぼくはそれをけしからんと思う前に、気の毒と感じるのだ。
近藤氏の主張は例えば、
1.がんは手術すれば良いとは限らない。
2.抗癌剤を使うとデフォルトで決めるのは間違っている。
3.がん検診をすれば患者に利益があると決めつけるのは間違っている。
4.ロジックとデータが大事。統計も大事。
と、まったく「当たり前」の主張である。現在の日本では「常識」だし、当時だって世界的には普通の考え方だった。
これに対して、例えば国立がんセンター名誉院長(当時)の市川平三郎氏の主張はデタラメである。例えば、
1.個人と集団は違うから、くじ引き試験(RCTのこと)はあてにならない(これは完全には間違いではないが、RCT全否定の根拠にはならない)。
2.日本の外科医は優秀で手術がうまいのだから、優秀じゃないアメリカ人のデータなんてあてにならない。
3.がんは早期に見つければ良い。最新の画像(当時のヘリカルCTなど)を活用すればよい。早く見つかって「助かる人もいる」。
いずれも、現在臨床医学的に見れば「非常識」だし、90年代当時アメリカでこれを読んだ僕も「非常識」だと思った。
近藤氏が繰り返し主張するのは「事実」「データ」「ロジック」の大切さだ。21世紀ですら日本の医療界はしばしばこうしたところを欠くのだから、97年当時はもっとひどかったろう。
おまけに本書でも指摘されているし、現在でもそうだが、多くの日本人医師は論文を読まない。ランセットやNEJMといったメジャーなジャーナルを読まない。英語ができないという極めてシンプルで恥ずかしい理由のためだ。本書で指摘されているように「この国では医学が科学になっていない」135pのが日本の少なくとも臨床医学界の実態だっただろう(いまでもその残滓は多い)。
ぼくはしばしば文科省や厚労省を批判するが、その最大の理由は「反省し、総括し、改善しない」ことにある。前人の批判をタブーとし、前職のやったことはアンタッチャブルになり、うまくいったこととうまくいかなかったことの区別をせず、ただただ「いろいろあったけどみんな一所懸命頑張ったよね」で終わらせてしまう。だから同じ構造の失敗を繰り返す。
しかし、翻るとこの悪癖は日本社会全体にも普遍的で、特に医者界隈でも多いのではないか。例えば、多くの医局の同門会では先人、前職の批判はタブーであり、反省、総括、改善、、、今風の言葉で言えばPCDAがまったくない。
ぼくは日本のがん診療界はかつての非科学的な態度や診療を大反省すべきだと思う。総括もすべきだと思う。そして近藤氏に当時の非礼と不見識を謝罪すべきだと思う。少なくとも当時の近藤氏の名誉を回復することなしに、ただただ人物批判、人格否定してもただのいじめではないか。
SNSでは、近藤誠氏の言説は多くの人の健康と人命をリスクにさらしており、看過できないという主張がある。それは正しい。だから僕も各論的に近藤氏のこことあそことあそこがおかしい、と論じている。しかし、同じことは90年代の日本がん診療界にもあったのではないか。多くの患者が間違ったがん診療のフィロソフィーに苦しめられ、近藤氏がいなかったらもっとたくさんの人たちが不当に苦しんでいたかもしれないのだ。
当時の無茶苦茶ぶりを看過して、一方的に近藤氏を叩くのはフェアとはいえない。医学界の悪習をそろそろ見直し、過去を直視するプラクティスを習慣化すべきだ。
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