静がん 感染症治療戦略(日本医事新報社)
ぼくが研修医になったとき、外科レジデントの先輩は病棟で自分で抗がん剤を詰めていた。外科医が自分でワークアップをし、ステージングをし、切り、ケモをして、すべてをスタンドアローンでやるのが当たり前の時代だった。
現代医療の最大のチャレンジであるがんについては、その分、基礎・臨床両面での研究が重ねられ、がん診療はかつてないほどの飛躍的な進歩を遂げた。進歩は先鋭化と分業化、そしてチーム医療を必然的に伴う。がん患者には多くの医療者がコミットするようになり、その多数のコミットメントが診療の質を担保する。例えば、喫煙は多くのがんのリスクファクターだが、心疾患や呼吸器疾患のリスクファクターでもある。がん患者が心筋梗塞になるのは十分想定すべき「そこにある」リスクである。しかし、多くのがん治療の現場では心臓疾患と対峙することはできなかった。緩和ケア、栄養、感染症といった周辺事象も「やっつけ仕事」であった。合併症患者の受け入れは困難となり、「がん難民」の遠因となった。
それではだめだという反省が当然起きる。築地のがんセンターには2010年に総合内科が設立された。がん治療に総合性が必要なことをしめした証左である。昔のように特定の診療科がスタンドアローンでがんを治療する時代は終わったのである。
しかしながら、ガンの治療現場での感染症診療レベルは現在でも必ずしも高くはない。静岡がんセンターは日本で初めて「本当の意味での感染症科」をもつようになったがんセンターだ。2016年の現在、ここ以外に感染症科をもつがんセンターはいくつあるだろう。いや、ここ以外に、ひとつでもあるだろうか。
国立国際医療研究センターで日本の感染症問題をとりあつあうリーダーである大曲貴夫先生が設立した「静がん」感染症内科は、やはりリーダーシップに優れた倉井華子先生が引き継いでいる。すでに感染症に関するテキストはいくつか出されているが、本書はより「読ませる」テキストである点が特徴だ。
がん患者に限らず、すべての患者には共通性と特異性がある。だから、「うちの患者は他の患者と違う」と言うだけでは不十分だ(そんなことは当たり前だ)。「どこが」「どのように」違うか、が明確にステートされなければ、意味がない。そして、残る部分こそが、一般化可能な共通項だ。
「静がん」では基本的にがん患者であってもそうでなくても感染症に対するアプローチは同じである、と教えられてきた。そのとおりである。そのうえで、各がん患者がどのような特殊性を有しており、それに対してどう対峙すればよいかを具体的に例示してきた。これが正当的なアプローチである。
本来は、感染症にvulnerableながん患者には専門家のまなざしが必要だ。しかし、上述のようにがん診療の現場に感染症のプロがいる現場は稀有な存在である。現在でも時代遅れなスタンドアローンながん治療が日本で行われ続けており、それが問題視されていない場所すら未だに存在するのも悲しい事実だ。だから、せめて非常に基本的なABCくらいは各担当医が自学自習すべきだ。やっつけ仕事や、「先輩からの代々の言い伝え」を根拠に診療してはならない。本書はそのための最良の助けとなろう。
ところで、「静がん」はぼくが知る限り、(実質的な)臨床感染症の後期研修プログラムを日本で最初に作った病院だ。がんセンターで初めてなのではなく、日本の医療機関で初めてである。伝統のあるこのプログラムのアラムナイが各所にエッセイを寄越している。その伝統性、エートスの伝承もまた、「静がん」の特徴であり、魅力といえよう。本書は「静がん」の伝統に則り、日本のガイドラインや保険診療のあり方に配慮し、どのようなセッティングでも応用可能な治療戦略を提言している。
「最古の」プログラムが生き延びるためには抵抗勢力との折衝が欠かせなかったであろうし、それが現実的なサバイバルの法則だったとも言える。その点、神戸大感染症内科のように患者にベストであればよい、的なアプローチはとっていないのだが、だからこそあちらこちらのセッティングですぐに応用可能な現実的なテキストだ。リアリストの大曲流だ。アイディアリストの岩田では、こういう本は書けないのである。
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