暑い日々が続いており、最高気温が32度くらいだと「涼しい」と錯覚してしまうくらいだ。
原発が停止状態で電力がもたないという悲観的な見方は以前からあった。今年の4月ですら電気事業連合会は、
と述べていた。現実には今年の猛暑でも電力には余裕があるわけで、以前の「原発再稼働しないと電力が足りなくなるぞ」という議論はどうなったんだろう、と思う。
「あのときと今とでは前提となる条件が異なる」という反論もあるだろう。もちろん、太陽光発電の普及など当時とは条件が変じた部分も大きい。しかし「前提となる条件が変わった」という意見を全面的に受け入れるならば、当然それに見合った原発再稼働の是非の議論も変じた前提に準じて見直すのが筋というものだろう。それに、太陽光発電くらいはプロでなくても十分想定可能な「条件」だったはずで、それを原発再稼働しかない、と強弁したのはやはり問題だった。
いずれにしても、議論をするときに、相手の論拠はできるだけ否定しないほうがよい。相手の論拠をそのものを否定してしまうと、観念的な信念論争、、、要するに水掛け論になってしまう。多くの前提となる論拠は推定、未来予測なわけで、絶対的な正しさは担保できない。絶対的に間違っているとも言えない。であれば、まずは「相手は正しい」と受け入れてみて、そこから議論をスタートさせたほうが実りが大きい。効果も大きい。相手の論拠をそのまま使えば、そこを否定されることはないのだから。
例えば、岩田温氏が安全保障について、渡辺謙氏のコメントを批判している。これを「相手の論拠を受け入れる形で」考えてみたい。
引用「世界に誇るべきは憲法ではない。日本の戦後の平和が担保されてきたのは、憲法のおかげではない。自衛隊と日米安保の存在による。世界に誇るなら、自衛隊と日米安保によって平和を守ってきたという事実そのものを誇るべきであって、憲法を誇るべきではないだろう。いわゆる「平和憲法」があったからこそ、日本の平和は保たれたというのは、虚構に過ぎない。仮に自衛隊、日米安保が存在せずに、日 本の平和は守られたのかを想像してみればいいだろう」
自衛隊、日米安保が存在しなかったら日本の平和は守られていなかったか。この歴史の「if」は厳密な意味では証明できないが、ここでは「その通り」と受け止めたい。「自衛隊と日米安保によって平和を守ってきた」も「事実」と受け止めよう。
問題は、その仮説は「日本国憲法が誇るに足る存在か」とは無関係な独立事象であるということである。言い換えれば、自衛隊が偉いという意見は「憲法は偉くない」という結論を導かない、それはそれとして「別の話」だということだ。よって、岩田氏の論拠から「世界に誇るべきは憲法ではない」という意見はなりたたない。
ぼくは日本の安全保障は大事な問題だと思うので、自衛隊の権限を明確に定義すべく、憲法改正を含んだ議論はきちんとすべきだと思っている。でも、「現状がこうだから、憲法を拡大解釈、あるいは曲解しても構わない」という立憲主義の否定はよくない。
こういう大事な問題はちゃんと正当な手続きを踏んで決めるべきで、なあなあ、なし崩しに決めるのはよくない。だから国民の多くは納得しないのだ。
そういう観点からは、ぼくは「戦争が嫌だから集団的自衛権反対」というシンプルなスローガンでもダメだとも思っている。海外法人の安全も国防も大事だ。もっとも、そのソリューションが集団的自衛権の容認「しかない」という議論の展開が危ういとは思っているが(なんでなんでしょ)。岩田氏は他のブログでもそのような議論を展開しているが、前提は「そのとおり」と思えても、結論に無理や飛躍、あるいは代替案の安易な棄却がある。
国民は納得しない。だから、当然のように安倍政権の支持率は下がり続けている。これはとても危険だ。安保法案反対の「空気」が今の安倍内閣の支持率を下げているからだ。日本では議論や論理ではなく、空気がものを決める悪弊がある。そうではなくて、ちゃんとした議論でこの問題を解決すべきだ。支持率V字回復の特効薬は戦争だからだ。ブッシュ然り、サッチャー然り。
「空気」を戦争反対の根拠にしてしまうと、その「空気」が戦争を容認させてしまう。「空気」以外に根拠が無いと日本人は容易に宗旨がえをしてしまう。60年代や70年代の運動家がどうなっていったかを見れば、それは明らかだ。戦争という熱気に当てられるとパトリオティックな感情でみんなが戦争に熱中してしまうという「空気」だって作られる。戦争時に国民が熱狂するのは歴史的には事例がたくさんあるし、日本ももちろん例外ではない。
だから、安保法案も雰囲気でなし崩し的に決めるのではなく、少なくとも合憲性は担保して行うべきなのだ。
戦争をすれば経済状態が悪化してアベノミクスが崩壊するー>より支持率が下がるから、戦争というオプションは絶対に取らないという意見を聞いた。クールな打算からはそういう推測はなりたつ、かもしれない。
しかし、であれば、全く同じ根拠で中国が日本に戦争をしかけることもありえない、という話になる。日本は中国の最大のビジネスパートナーなのだから。演繹的に「そんなことはありえない」と決めつける論法は、やや危険だ。ぼくは上記のように、集団的自衛権には懐疑的な見解だが、中国のポテンシャルな脅威を無視してよいとも思っていない。
前にも書いたが、電力の問題は物理学、工学、医学、経済学、気象学などたくさんのスペシャルティーが混在するマルチディメンショナルな問題だ。だから「私の立場からは」と自領域を根拠にした正当性ばかり主張していても、妥当な解答は導けない。他者の言葉に耳を傾け、その論拠を「先ずは」受け入れてみる。そういう形の対話が大事になる。安全保障など他の問題も、同様だ。
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