前回に引き続き、「日本の医者が、ハートは100点、頭が0点な理由」です。
一般的に、医者は頭が良い人がなる職業だと思われています。しかし、日本の医者の頭はそんなによくはありません。少なくとも、「医療」という観点からは、よくありません。
なぜか。
その問いには、そもそも「医療の本質とは何か」という問いを考えれば分かります。
みなさんは、医療の本質とは何だと思いますか。患者に尽くすこと?でも、前回説明したように、ただただハートいっぱいに患者に尽くしても、それが裏目に出ることは多いのです。ですから、患者に尽くすだけではダメです。患者に尽くすのは医療において前提ですし、自明ですが、その「本質」ではありません。
ぼくが思うに、医療の本質とは、「問いを立てること」だと思います。
この患者さん、なぜ熱が出ているんだろ。この患者さん、なぜ頭がいたいんだろ。この患者さん、なぜ顔が真っ青なんだろう。この患者さん、なぜこんなに不機嫌そうなんだろう。この患者さん、なんでこんなに不安そうなんだろう。
ほとんど全ての医療の問題は、患者に対して問いを立てること、適切な問いをたてること、そして適切な問いから出てきた答え(多くの場合は、診断)に見合った答えを提供することなのです。よく、医者は患者の話を聞かなければいけないといいますが(そして、多くの医者は患者の話を聞いていませんが)、「聞くこと」はすなわち、「問うこと」とほぼ同義なのです。
治療についても同様です。なぜ、尿酸値を下げるのか、なぜ、血糖値を下げるのか、なぜ、血圧を下げるのか、なぜ、CRPを下げるのか。その問いを適切に、徹底的に行えば、ただただ尿酸を、血糖を、血圧を、CRPを下げる「だけ」ではだめなことが分かります。問いの立て方が不十分で不徹底だから、手段が目的化しちゃうんです。
さて、日本の医者は「問いを発すること」が苦手です。そういう訓練を受けていないからです。
むしろ、日本の医者が長年行なってきたのは「問いに答えること」です。
6歳で小学校に入学して以来、高校卒業、大学入学まで、ひたすら先生の問いに正確に、迅速に、大量に答えることができる人が優秀なのです。「分数のわり算はなんでひっくり返して掛け算なんだろ」なんて問いを発する人は止まってしまって、効率が悪く、成績が悪く、医学部には入りにくいのです。そんなこたーいいから、とりあえず答え出せよ、の人のほうが医学部に入りやすいのです。効率の問題なのです。
で、大学生になると、たいていの学部ではゼミがあり、卒論があります。そこで、まがりなりにも「問いを立てること」を学びます。しかし、医学部は伝統的に吸収する知識量が多すぎるために、ゼミも卒論もありません。ひたすら、解剖学を、生理学を、生化学を、病理学を、そして各科臨床医学を詰め込んでいきます。ここでも、問いを問う人よりも、問いに正確に、迅速に、大量に答えることのできる人のほうが優等生です。医師国家試験にめでたく合格しやすいのも、こういう人たちです。
医者になると、伝統的に日本では大学の医局に入局し、教授が大ボスで医療の研鑽を受けてきました。ここでも、上の先生の命令に正確に、迅速に、大量に答えることができる研修医が優秀な研修医です。「なんでこういう抗生物質使うんですか」「なんでこんな検査が必要なんですか」みたいな質問を発する研修医は「うるさいやつだな」とうっとうしがられます。「問いを発するのがヘタ」な医者ほど優秀、という逆説が起きるのです。
医学研究だって、多くは教授の命令に答えて受動的に行う研究です。山中伸弥教授が「研究者は油断すると、他人の方法論を真似て、阿倍野の犬のような論文を書いてしまう」と指摘したのはそういうことです(http://business.nikkeibp.co.jp/article/NBD/20121009/237845/?ST=pc)。
人よりも正確に、迅速に、大量に問いに答えることができる学生が医学部に行く傾向があり、医学部に入学しても、卒業しても、その流れは変わりません。とくに「一流大学」と目されている大学ほど、この傾向が顕著です。スペックのよいコンピューターのようなものです。しかし、どんなに優秀な東大生も、正確性、迅速性、容量ではコンピューターにはかないません。こういう大学の卒業生こそ、逆説的に医療という観点からは「頭が悪い」のです。
コンピューターには出来ないようなことこそ、人間がやるべきなのです。医者がやるべきなのです。
先生、眠れないんです。という患者さんがいたとき、行うべきは「どうして眠れないのか」という問いを発することです。患者に、自分に。しかし、多くの医者は「じゃ、眠剤出しときましょ」と「答えを出してしまう」のです。熱、CRPに抗生物質を出してしまうのです。血糖が高いとDPP4阻害薬を出してしまうのです。高血圧にディオバンを出してしまうのです。そこには「なぜ」という問いがないのです。
むかしはコンピューターが不出来だったので、そういうコンピューター的な仕事を医者が代替わりしていました。人体の解剖とか、薬の名前とか。だから、優秀なコンピューター的に優秀な大学生が、優秀な医者と「勘違いして」くれることも可能だったのです。
しかし、いまやそういう仕事はコンピューターが代わりにやってくれます。だから、そういう能力は医者にはそれほど必要ではありません(皆無ではないですが)。そうではない頭の使い方が必要なのです。
ですから、神戸大学では学生に、研修医に「問いを立てる」よう一所懸命働きかけています。それは、これまでとは真逆の頭の使い方なので、みな当惑し、苦しみます。ちょうど、流れに逆らってプールを逆走するようなもので、とても大変です(反対に向かっていればとても楽なのです)。でも、医療の本質が「問いを立てる」ことである以上、この訓練を避けては通れないのです。
とはいえ、
もちろん、「一流大学」の卒業生だからだめ、ということはありません。
例えば、ぼくが知っている中では、東京大学卒業の坪倉正治先生。亀田総合病院でいっしょに仕事をしましたが、現在は血液内科医として、そして福島における内部被曝に関するサービスと調査を主体的にやっています。内部被曝についてはあれやこれやの話がありますが、「自ら問いを立て」、「自分で確認する」ことが大事だと判断したのです。
例えば、慶応大学の香坂俊先生。ぼくが今まで見た中で「一番頭がいい」医者の彼は、アメリカでトレーニングを受け、そちらで診療していましたが、彼も「自分の頭で考える」ことのできる素晴らしいドクターです。彼が、冠動脈の「スパズムなど存在しませんよ」と大胆発言したときはすごくびっくりしました。彼は、なぜこうも日本「だけ」で冠動脈のスパズムが多いのかを一所懸命に考えたのでした。「極論で語る循環器内科」(丸善出版)「もしも心電図が小学校の必須科目だったら」(医学書院)など、素晴らしい著書をたくさん出しています。全然、トンデモではありません、念のため。
例えば、京大卒の、ユタで集中治療をやっている田中竜馬先生。彼も沖縄中部、アメリカ、亀田で一緒に仕事をした「戦友」ですが、やはり主体的に自分の頭で考え、判断することのできる素晴らしい医者です。ま、友人としてはアレだけど。
というわけで、「一流大学」出だからダメだってことはまったくありません。まあ、上述の三氏は「一流大学を出たから」というより、「にもかかわらず」なのですが。
もちろん、「一流大学」出じゃないのは、「答えを出す」正確性、迅速性、大量性が「普通」というだけで、それは「問いを立てる」能力を担保しているわけではありません。そちらにつんのめっていないぶんだけ、チャンスがある、というだけです。まあ、いわゆる一流大学出じゃない医者のほうが、問いを立てるのは比較的上手かもしれませんね。プライドも高くないから、質問するのに抵抗感もあんまりないし。プライドって精進の邪魔者ですね。
一般的に、医者は頭が良い人がなる職業だと思われています。しかし、日本の医者の頭はそんなによくはありません。少なくとも、「医療」という観点からは、よくありません。
なぜか。
その問いには、そもそも「医療の本質とは何か」という問いを考えれば分かります。
みなさんは、医療の本質とは何だと思いますか。患者に尽くすこと?でも、前回説明したように、ただただハートいっぱいに患者に尽くしても、それが裏目に出ることは多いのです。ですから、患者に尽くすだけではダメです。患者に尽くすのは医療において前提ですし、自明ですが、その「本質」ではありません。
ぼくが思うに、医療の本質とは、「問いを立てること」だと思います。
この患者さん、なぜ熱が出ているんだろ。この患者さん、なぜ頭がいたいんだろ。この患者さん、なぜ顔が真っ青なんだろう。この患者さん、なぜこんなに不機嫌そうなんだろう。この患者さん、なんでこんなに不安そうなんだろう。
ほとんど全ての医療の問題は、患者に対して問いを立てること、適切な問いをたてること、そして適切な問いから出てきた答え(多くの場合は、診断)に見合った答えを提供することなのです。よく、医者は患者の話を聞かなければいけないといいますが(そして、多くの医者は患者の話を聞いていませんが)、「聞くこと」はすなわち、「問うこと」とほぼ同義なのです。
治療についても同様です。なぜ、尿酸値を下げるのか、なぜ、血糖値を下げるのか、なぜ、血圧を下げるのか、なぜ、CRPを下げるのか。その問いを適切に、徹底的に行えば、ただただ尿酸を、血糖を、血圧を、CRPを下げる「だけ」ではだめなことが分かります。問いの立て方が不十分で不徹底だから、手段が目的化しちゃうんです。
さて、日本の医者は「問いを発すること」が苦手です。そういう訓練を受けていないからです。
むしろ、日本の医者が長年行なってきたのは「問いに答えること」です。
6歳で小学校に入学して以来、高校卒業、大学入学まで、ひたすら先生の問いに正確に、迅速に、大量に答えることができる人が優秀なのです。「分数のわり算はなんでひっくり返して掛け算なんだろ」なんて問いを発する人は止まってしまって、効率が悪く、成績が悪く、医学部には入りにくいのです。そんなこたーいいから、とりあえず答え出せよ、の人のほうが医学部に入りやすいのです。効率の問題なのです。
で、大学生になると、たいていの学部ではゼミがあり、卒論があります。そこで、まがりなりにも「問いを立てること」を学びます。しかし、医学部は伝統的に吸収する知識量が多すぎるために、ゼミも卒論もありません。ひたすら、解剖学を、生理学を、生化学を、病理学を、そして各科臨床医学を詰め込んでいきます。ここでも、問いを問う人よりも、問いに正確に、迅速に、大量に答えることのできる人のほうが優等生です。医師国家試験にめでたく合格しやすいのも、こういう人たちです。
医者になると、伝統的に日本では大学の医局に入局し、教授が大ボスで医療の研鑽を受けてきました。ここでも、上の先生の命令に正確に、迅速に、大量に答えることができる研修医が優秀な研修医です。「なんでこういう抗生物質使うんですか」「なんでこんな検査が必要なんですか」みたいな質問を発する研修医は「うるさいやつだな」とうっとうしがられます。「問いを発するのがヘタ」な医者ほど優秀、という逆説が起きるのです。
医学研究だって、多くは教授の命令に答えて受動的に行う研究です。山中伸弥教授が「研究者は油断すると、他人の方法論を真似て、阿倍野の犬のような論文を書いてしまう」と指摘したのはそういうことです(http://business.nikkeibp.co.jp/article/NBD/20121009/237845/?ST=pc)。
人よりも正確に、迅速に、大量に問いに答えることができる学生が医学部に行く傾向があり、医学部に入学しても、卒業しても、その流れは変わりません。とくに「一流大学」と目されている大学ほど、この傾向が顕著です。スペックのよいコンピューターのようなものです。しかし、どんなに優秀な東大生も、正確性、迅速性、容量ではコンピューターにはかないません。こういう大学の卒業生こそ、逆説的に医療という観点からは「頭が悪い」のです。
コンピューターには出来ないようなことこそ、人間がやるべきなのです。医者がやるべきなのです。
先生、眠れないんです。という患者さんがいたとき、行うべきは「どうして眠れないのか」という問いを発することです。患者に、自分に。しかし、多くの医者は「じゃ、眠剤出しときましょ」と「答えを出してしまう」のです。熱、CRPに抗生物質を出してしまうのです。血糖が高いとDPP4阻害薬を出してしまうのです。高血圧にディオバンを出してしまうのです。そこには「なぜ」という問いがないのです。
むかしはコンピューターが不出来だったので、そういうコンピューター的な仕事を医者が代替わりしていました。人体の解剖とか、薬の名前とか。だから、優秀なコンピューター的に優秀な大学生が、優秀な医者と「勘違いして」くれることも可能だったのです。
しかし、いまやそういう仕事はコンピューターが代わりにやってくれます。だから、そういう能力は医者にはそれほど必要ではありません(皆無ではないですが)。そうではない頭の使い方が必要なのです。
ですから、神戸大学では学生に、研修医に「問いを立てる」よう一所懸命働きかけています。それは、これまでとは真逆の頭の使い方なので、みな当惑し、苦しみます。ちょうど、流れに逆らってプールを逆走するようなもので、とても大変です(反対に向かっていればとても楽なのです)。でも、医療の本質が「問いを立てる」ことである以上、この訓練を避けては通れないのです。
とはいえ、
もちろん、「一流大学」の卒業生だからだめ、ということはありません。
例えば、ぼくが知っている中では、東京大学卒業の坪倉正治先生。亀田総合病院でいっしょに仕事をしましたが、現在は血液内科医として、そして福島における内部被曝に関するサービスと調査を主体的にやっています。内部被曝についてはあれやこれやの話がありますが、「自ら問いを立て」、「自分で確認する」ことが大事だと判断したのです。
例えば、慶応大学の香坂俊先生。ぼくが今まで見た中で「一番頭がいい」医者の彼は、アメリカでトレーニングを受け、そちらで診療していましたが、彼も「自分の頭で考える」ことのできる素晴らしいドクターです。彼が、冠動脈の「スパズムなど存在しませんよ」と大胆発言したときはすごくびっくりしました。彼は、なぜこうも日本「だけ」で冠動脈のスパズムが多いのかを一所懸命に考えたのでした。「極論で語る循環器内科」(丸善出版)「もしも心電図が小学校の必須科目だったら」(医学書院)など、素晴らしい著書をたくさん出しています。全然、トンデモではありません、念のため。
例えば、京大卒の、ユタで集中治療をやっている田中竜馬先生。彼も沖縄中部、アメリカ、亀田で一緒に仕事をした「戦友」ですが、やはり主体的に自分の頭で考え、判断することのできる素晴らしい医者です。ま、友人としてはアレだけど。
というわけで、「一流大学」出だからダメだってことはまったくありません。まあ、上述の三氏は「一流大学を出たから」というより、「にもかかわらず」なのですが。
もちろん、「一流大学」出じゃないのは、「答えを出す」正確性、迅速性、大量性が「普通」というだけで、それは「問いを立てる」能力を担保しているわけではありません。そちらにつんのめっていないぶんだけ、チャンスがある、というだけです。まあ、いわゆる一流大学出じゃない医者のほうが、問いを立てるのは比較的上手かもしれませんね。プライドも高くないから、質問するのに抵抗感もあんまりないし。プライドって精進の邪魔者ですね。
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