某MLに書いた文章です。こちらにも出しておきます。
喫煙と喫煙者 そして憎悪の感情と差別
はじめに予防線を張っておきます。ぼくは90年台に、映画「インサイダー」のモデルになったジェフリー・ワイガンドの話を聞いたことがあります。彼はブラウン・アンド・ウイリアムソンの研究者(化学者)で、タバコ会社が健康被害データをいかに隠蔽していたかを、60ミニッツ(日本でいうクロ現みたいな番組)に内部告発し、解雇されます。その内幕をぼくは内科研修医のときに学んだのでした。
その後、ぼくはいかに中曽根政権がアメリカの外圧にまけて外国たばこ(マルボロとか)の関税が取っ払われたかとか、当時のフィリップモリスがどのようにアメリカで減った収益をアジアに転化し、アジアの人たちの健康に悪影響を(戦略的に)与えてきたかを会社の収支報告などをまとめ、論文化しています(ばんぶうという雑誌に書きましたが、バックナンバーが思い出せません、、、)。ぼくはアメリカの内科専門医ですが、喫煙の健康被害については日本の内科専門医よりもずっと勉強させられます。禁煙外来も行います。COPDや肺がん、MIの患者も随分見ましたし、今でも感染症屋として喫煙の合併症は嫌というほど見せられています。
少なくとも、ぼくは臨床医学的に、そして社会学的に、平均的な日本の内科医よりはタバコの問題についてたくさん勉強してきたと思っています。
ところが、ぼくがこの話題を口にすると、多くの医者たちに怒られます。「お前はタバコがこういう健康被害をもたらすのか、知らないからそういうことを言うんだ」というのがほとんどの論旨で、必死にぼくに教育しようとします。そこはポイントではないのに。
多くの方は、そのタバコの基本的な知識について、割と間違えています。例えば、セカンドハンドスモーキング(SHS)の被害について定量的にレビューしている医師はそんなに多くありません。既存のデータはほとんどが密度の濃い喫煙曝露を長期的におこなった場合の健康被害で、それもリスク比は大きくないことを示しています。しかし、そのようなデータを示してもほとんど黙殺されるか、罵倒されるかのどちらかです。以前にある医者がいて、「喫煙者とすれちがったとき、私は「あなたは私の肺がんのリスクを今増やしだんですよ」と言う」と言っていました。これはもう、「虚言」と言っても良いと思います。
たばこは一本でも健康に害、というのもほとんど「ウソ」です。一本すったくらいでは健康被害はほとんどありません。そりゃ、まれに気管支攣縮を起こす人はいるかもしれませんが、それをいうなら、ピーナッツだってお餅だって理論的には一個で健康被害を起こすわけですから、「ピーナツは一個でも健康に有害です」というのと同じぐらい、「たばこは1本でも健康に有害です」は言い過ぎ、あるいは重箱の隅つつきというものです。
サードハンドスモーキング(THS)の健康被害は現在定量的に吟味されたデータがありません。むしろ、殆ど無いと考えるのが妥当でしょう。この点も何度も指摘しましたが、黙殺の対象となっています。THSの害はむしろ快、不快の問題になります。それは酒でも香水でも汗でも加齢臭でも起こしうる問題で看過してはなりませんが、「別の問題」として扱う必要があります。
「正義」はデータの歪曲を正当化しません。でも、このMLの対話においてはそれが散見されます。それは絶対にやってはならないことです。ぼくはHIVを扱い、エイズ患者を扱います。その予防には全力を尽くしてやっていますが、「エイズ患者に触るな」とか「彼らに近づくな」とは絶対に申しません。それは「虚言」だからです。
みなさんのコメントを読んでいて、そしてまた読みなおして強く伝わってくるのは、喫煙者に対する憎悪の感情です。禁煙に拳を振り上げない医者に対する憎悪の感情です。あるいは、憐憫の感情です。しかし、憎悪も憐憫も「俺とあいつは違う」という他者性を意味します。また、「あいつは俺よりも下」という上下関係も作ります。
哀れなり、喫煙者、は憐憫の情ですが、それを言い換えるならば、差別感情なのです。その感情が、文中に、そして行間に渦巻いているのです。
差別感情は、殆どの場合差別感情として勘定されません。私は差別者ですよ、と自己申告する人はいないからです。しかし、「自分は人種差別者だ」と公言する人はほぼ皆無ですが、「お父さん、今度結婚する彼、黒人なのよ」と言われて狼狽する人は多いでしょう。
喫煙者を差別してはなりません。攻撃してもなりません。憐憫も上下関係を惹起する差別感情です。患者を憐憫してはいけません。憐憫とは違う形で、ぼくらは患者にまなざしをたたえるべきです。HIVとエイズを憎悪するのは公憤ですが、感染者、患者、同性愛、同性愛者、セックスを憎悪するのは差別感情です。「賛成と反対」という二元論、攻撃しなければ擁護者なのだというレッテル貼りも差別感情です。「喫煙者を擁護しやがって、ふん」という冷笑も差別感情です。医者はプロとして、感情に任せて差別を正当化してはならないのです。
ある人物をある条件にもとづいて禁止するのも、「あいつとおれを」区別する差別感情の発露です。したがって、くり返します。喫煙者であることを理由にある領域の専門医であることを禁じてはいけません。形式的でも、本質的でも、同じ事です。実行可能か不可能かが問題ではないのです。それが差別行為であることが問題なのです。
差別行為を行うことは医者のプロ精神に反します。だから、ぼくは、逆説的に、しかしマジに「喫煙者は専門医なんか持たせてはダメだ」という主張を行う医者こそ、専門医ではあってはならないと主張します。みなさんの鋭利な言葉は差別感情に満ち満ちています。それがグサグサと突き刺さるのがぼくにはよく見えます。「そんなことはない」とおっしゃる人もいるでしょう。それはまさに、「喫煙者は自分の口臭には気づかない」ことなのです。
禁煙宣言、タバコ撲滅宣言、大いにやったらよいでしょう。JTやフィリップモリス(とその関連会社)への抗議や不買運動、どんどんやったらよいでしょう。もっとストラテジックに、畑の生薬への置換運動なんか内科学会が主導でやったら、とても効果的だと思います(やりませんか?)。僕らはプロですから、シンプルな一元論や二元論を克服することができるはずです。「喫煙への公憤と喫煙者への差別感情」とを区別する大人の分別を持てるはずです。喫煙者を憎悪しない形で喫煙問題に取っ組み合うことはできるはずです。我々専門医は「大人の集団」であるべきなのです。
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