新刊紹介です。表紙も気に入りました。「はじめに」から、コピペします。
本書、「診断のゲシュタルト」をかなりの自信を持ってお送りします。診療現場で役に立つことはまず間違いありません。ぼくがこんなに自信満々で「はじめに」を書くことはまず皆無でして、ぼくにとっても、これはかなり稀有な経験です。その根拠は各執筆者のゲラを読んでいて胸がドキドキ・ワクワクしてくる感情の高まりを抑えられなかったからで、およそ医学書でこのような体験をすることはほとんどないからです。執筆者のみなさんに原稿依頼を出したときは、「たぶん面白い原稿が返ってくるだろうな」と期待はしていたのですが、これほどまでとは正直、思っていませんでした。
さて、それでは「ゲシュタルト」とは何か。これは、もちろんゲシュタルト心理学のゲシュタルトです。ドイツ語で、die Gestalt(女性名詞)とは、形、英語で言うとshapeという意味です。もっと言い換えるなら、「見た目」です。ドイツ語は難しいイメージがありますが、要するにゲシュタルト診断とは、「見た目診断」といってもよいのです。
ただし、ぼくらがここでいう「見た目診断」は「直観」ではありますが「直感」とか「勘」ではない、と申し上げておきたいです。M・ポランニーの「暗黙知」(tacit knowledge)には若干近いとおもいますが、それとも違うような感じです。
また、臨床推論でよく用いられる「ヒューリスティック」(heuristic)とも違うと思います。
もともとこれは、「発見する」を意味するheuristicusというギリシア語から来た用語だですが、「rule of thumbs」とも言われ、経験に基づく「法則」みたいなものを指します。「突然発症の喀血なら肺塞栓を疑え」とか、「糖尿病患者の胸痛なら心筋梗塞を考えろ」みたいなものもこれにあたるでしょう。それは、ショートカットでもあります。網羅的に部分的な要素をすべて集めて全体像を作るのではなく、「アタック25」のように、抜けている画像がありながらも、いくつかのピースの組み合わせで全体像を透かし見てしまうのです。ショートカット故にそこには「端折り」があり、そのため誤診してしまうリスクもはらみます。「糖尿病患者の胸痛で、実は気胸だった」のように。
ゲシュタルトとは、ヒューリスティックのように少ない要素、部分のつなぎ合わせから全体像を作るものではありません。むしろ、「全体を全体としてみる」方法です。部分ももちろん全体の要素であり、部分なくして全体はありえないのですが、あくまでも全体の部分としての部分、、、その文脈が必要になります。
いつもこの卑近な例を使っているので、「卑近な例」がお嫌いな方は申し訳ありません。
AKB48というアイドルグループがいます。ぼくはこのグループについてほとんど知識皆無ですが、その「一番偉い人」はセンターというのだそうです(間違ってたらごめんなさい)。本稿執筆時点でAKB48のセンターは大島優子です(らしい)。しかし、ぼくには大島優子は他のメンバー特別がつきません。目の前を歩いていても、まず分かりません。
しかし、スレッカラシのAKBファンなら大島優子と他のメンバーを峻別するくらい朝飯前でしょうし、街を歩いていても、視野に入っただけで「それ」と気づくかもしれません。たとえ変装していても、見抜くかもしれません。
両者の「大島優子鑑定能力」の差はどこにあるのでしょうか。おそらく、それはヒューリスティックではありません。スレッカラシのファンが、部分情報をいくつか組み合わせてショートカットをして、「大島優子」を認識しているなんてまずありえません。もちろん、網羅的、系統的に情報を収集し「眼の直径が何ミリ」「鼻の高さが何ミリ」、、、と部分を積み重ね、鑑別を除外して診断に至っているわけでもないでしょう。
スレッカラシのファンは瞬時にして、大島優子全体を全体として認識し、それも正確に認識し、そうと言い当てているのです。そこでは眼とか鼻とかの部分要素は、全体の文脈としての要素に過ぎず、「まず眼を確認して、、次いで鼻を、、」とはならないのです。
部分の集積としての全体ではなく、全体としての全体たるゲシュタルトとは、こういうイメージです。そして、診療医は意識してか無意識のうちにか、このようなゲシュタルトを疾患について持っているのではないか、というのがぼくの仮説です。たぶん、持っていると思います。
では、ある疾患に対する(スレッカラシの)ドクターのゲシュタルトを、他者と共有するにはどうしたらよいのでしょうか。
同じような臨床経験を積めば良い、というのがショート・アンサーですが、それでは身も蓋もなさすぎます。そうでない形で、共有するにはどうしたら良いのでしょう。2つの答えを考えてみました。
ひとつめは、その疾患の「本質」をずばりと言い当てることです。
優れた評論はこういう営為を行なっています。対して、「つまらない」評論は、対象の枝葉末節な知識の羅列と、雑駁な論者の感想(感情)を羅列するだけで終わりなのです。しかし、優れた評論は、そのもののもつ本質を、ずばり核心を突く形で短く表現します。
内田樹氏は、クリント・イーストウッドの「ミリオンダラー・ベイビー」を「あれは要するに「あしたのジョーだ」」とまとめました。普通の論者は、これは何年制作の映画で、イーストウッドの何本目の監督作品で、主演のヒラリー・スワンクは「ボーイズ・ドント・クライ」で性同一障害の女性を演じ、アカデミー賞をいくつ取って、安楽死や尊厳死に○○な話題を提供した、、、と論ずるのです。部分の積み重ねから全体を見ようとするのです。でも、「あしたのジョーだ」とど真ん中にはなかなか余人には言えません。
高齢者が「体中が痛い」(中略)ときには、念頭におくと良い (本書220ページ)
のように「ズバリ」とまとめてしまう。全体像を一言でまとめてしまうわけです。
もちろん、この「ズバリ」は我々の度肝を抜きはしますが、全体像そのものが見えるようになりはしません。今度は全体像の詳細な描写が必要になります。
部分たる言葉で全体像を示すのは、一見矛盾です。もし、それをやろうと思えば、「ウジウジする」しかありません。全体と部分を行ったり来たりし、本来なら「語ることのできない」全体像を言葉で近似しようとするのですから。
全身疾患としてreview of systemを意識し鳥瞰図を見渡すような全身を診る眼、刺し口を見逃さない射抜くような局所を診る眼、そして疾患の疫学を知りつつ患者の生活背景をできるだけ探ろうとする眼が必要です(本書264ページ)。
このように行ったり来たり、ウロウロウジウジとしながら、言葉を重ねながら、全体像が透かし見ることができるように、「全体としての全体」が醸し出せるよう、各執筆者にはお願いしたのでした。
結果は、期待以上のものでした。みなさん、思いの丈をぶちまけてくれたというか、病気のイメージが非常に伝わってくる好文章が多く、それにぼくは感動したのです。
文章の魅力は文体が寄与しており、言葉の使い方が寄与しています。ですから、各執筆者の文章はできるだけ手を入れないように、あえて心がけました。用語の統一などは「疾患の理解の妨げになる時」など本質的な問題についてのみにし、そのような本質的な問題はほとんど起きないのでした。筆が滑って「治療」や「病態生理」にまで言及していただいた方もおいででしたが、それも「個性」のうち。筆者の姿形が浮かび上がってくるようなその文章や「前のめりさ」に水をかけたくもなく、ぼくの一存でそのままに残していただきました。業界の定型的慣習に従わないぼくに金芳堂の三島民子さん、宇山閑文さんはご苦労されたと思います。この場を借りてお詫びと御礼申し上げます。
それでは、本文をどうぞお楽しみください。
2012年11月 岩田健太郎
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