厳しいタイトルなのは承知の上である。でも、ぼくは「ああいう」のが一番嫌いで、醜悪だと思っているので、敢えて苦言を呈する。
盟友の香坂俊先生から「コンサルテーションの極意」というタイトルで、慶応大学のグランドラウンズに招待された。ここのところ多忙で(ほんと)講演のたぐいはお断り気味なのだが、香坂先生の依頼とあっては断ることはかなわない。二つ返事で承知した。
ぼくの前に、各科から15分程度のプレゼンテーションを受ける。最初は香坂先生自身であり、術前心疾患(冠動脈疾患)ワークアップの理念と実践について、相変わらず切れ味優れたレクチャーを受けた。
が、その後、ぼくはだんだん不機嫌になっていく。「コンサルテーションの極意」たるレクチャーの八割がたが、「俺様を呼ぶからには、最低これだけはやっておけよ」レクチャーだったからだ。
研修医に一番嫌われる指導医とは、厳しい指導医でも、細かい指導医でもなく、「一貫性のない」指導医なのだというらしい。確かに、昨日は「Aをやれ」と言い、今日は「なんでAをやった」と言われれば、研修医としては立つ瀬がないだろう。
しかし、それは研修医の見ている世界と指導医の見ている世界の違いに起因していることが多いのもまた事実だ。昨日のケースと、今日のケースは、指導医的には「全く別物」かもしれない。しかし、研修医には「同じ」と見えているかもしれない。同じと見た研修医には指導医の判断は首尾一貫しておらず、「いい加減な奴」と思われかねない。それは端的に、研修医側の問題だ。指導医を批判する前に、己の無力と無知を吟味したほうが良い。
事程左様に、世界は見方によって見え方が異なるものだ。コンサルタントとコンサルティ−(コンサルタントを呼ぶ人)も、同じ物を異なるやり方で見ている。見え方が違うのが当たり前なのだ。もし、同じ見え方をしているのならば、コンサルタントを呼ぶ価値がない。
多くのコンサルタントは、この事実に無頓着である。「なんでこんなこともできないんだ」「なんでこんな事も知らないの」とくさす。本日の慶応での「レクチャー」も、「なんでこんなこともできないの」の連鎖であった。
でも、それって当たり前じゃないか。それができないからの、コンサルテーションである。できるのなら、あなたのコンサルタントとしての存在意義も消えるんじゃないの?
本日の慶応大のプレゼンの多くは、プライドの高い医師たちの「なんでこの程度で俺様をよびやがるんだ」「俺様を呼ぶんならこの程度のことはしておけ」的なメッセージに満ちていた。それをぼくはとても不快に思った。コンサルタントとは、基本的に「サービス業」だからである。
ぼくが2004年に日本に戻ってきた時、感染症は「コンサル不要、適当にCRP見ながら抗生剤をとっかえひっかえ使うもの」的な認識であった。今でも多くの医療現場ではそうである。
ないニーズを掘り起こすのは大変だ。ウォークマン以前には、歩きながら音楽を聴きたい人なんて皆無だった。アンケート調査をしても、「隠れたニーズ」は分からない。スティーブ・ジョブズがマーケティングを嫌ったのは、そのためだ。
所与のものであるアメリカと違い、日本では感染症のプロが生きていくためには営業努力を必要とした。亀田でも、神戸でも同じだ。でも、その逆境がカスタマーサービスへのawarenessを促した。アメリカだったら、IDコンサルトは所与のものだから、ここまで努力は必要なかったろう。逆説的に、我々は質の高いコンサルテーションサービス提供を学ぶチャンスを得たことになる。
あと、検査の過剰も鼻についた。「評価」したいから、という目的で検査がどんどんコンサルタントから要請される。でも、その「評価」が何をもたらすにかは、わりと無頓着である。このことは、すでに香坂先生から指摘されていた。心カテをやれば、冠動脈の形は見事に「評価」できる。So what? 患者がそこからどういう恩恵をうけるかが、問題なのである。多くの医師はその点に無頓着で、「評価するために評価する」トートロジーが遍在する。
神戸大も問題ありありだけど、慶応の連中よりははるかに謙虚だ。謙虚さは向上のガソリンである。その分、ポテンシャルは高い。まあ、近くに阪大、京大あるからそんなに鼻高々になるような馬鹿な、勘違いな真似はできない、という事情はあろう。でも、謙虚さは学びの第一歩だ。ぼくは1月にハワイ大とUCSFと回ったけど、今日プレゼンした慶応の医者たち(香坂先生みたいな怪物は除く)レベルの医者は世界にはザラにいる。でも、アメリカの医者はもっと謙虚だったよ。あの、思い上がった態度は何を根拠に来るのだろうか。井の中の蛙ではないのか。
コンサルタント・コンサルティ−関係は、医者患者関係にほぼ等しい。それは、突き詰めて言えば、一般的人間関係の一バリエーションにすぎない。そういうことを、慶応大の医者たちは一度でも意識したことがあるのだろうか。ぼくは、その点について極めて懐疑的にならざるをえない。
おそらく、天下の慶応大学を臨床レベルで批判する輩はほとんどいないだろう。それが増長の原因である。ぼくがこんな駄文を書いているのも、それを何とかしたいからである。さて、なんとかなるか。各人の受け止め方次第だな。
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