ぼくは学会が好きではない。いろいろな人が集まっている場は嫌いではないが、「同じような人」だけが集まっている場がなんとなく気持ち悪いからだ。だから、ぼくは全体主義が生理的に嫌いなんだな。とくに日本の学会は「学会員以外は発表させない」という狭量な習慣があるから、なお気持ち悪い。そう、ぼくは狭量が嫌いなのである。
学会ではいろいろなシンポジウムが開かれる。特に多いのが、「なんとかの立場から」という副題だ。あれが、また嫌だ。お前は自分の立場からしか、モノが言えんのか、と突っ込みたくなってしまう。
研修管理委員会とかやると、大学病院みたいな典型的な「たこつぼ社会」だと、「うちの科」の話しかしない。あれも、嫌だ。どうして「研修医の話」をしないのだろう。みんな、「うちの科」の事情、うちの科の特殊性を喧伝するばかり。というか、そもそも初期研修をリクルートの場と勘違いしている指導医が多すぎる。だから、「うちの科」に入らない研修医は教えたくない、というとんでもないことを平気で口にする。
(社会性に乏しい)医者の多くは気づいていないが、世間は就活している。面接官は、部屋に入った瞬間に「こいつはいい」「こいつはだめだ」と判別している。こうおっしゃったのは内田樹先生だ。僕もそう思う。実際、ぼくは履歴書なんて読まないし(だから自分の医局の出身大学はしばしば間違えるし、出身高校なんて全然知らない)、会った時の印象がほとんど合否の全てである。
が、たとえ「この人はとれないな」と思っても、そこで追い返したりはしない。志望動機を聞き、得意分野を聞き、世間話をして、丁重にインタビューに参加してくれたお礼を言う。
情けは人の為ならずである。世界は狭い。自分の会社に来ない面接者も将来は自分の取引先になるかもしれない。こういう場所で相手をないがしろにすると、思わぬところでしっぺ返しを食う。
感染症の世界も狭い。たとえうちにこない先生でも、将来は同業者としてあれやこれや、一緒に仕事をする仲になるのは自明である。面接のとき「うちにこないから」とぞんざいに扱っていると、5年後、10年後、そういう相手が重要な仕事仲間になるかもしれない。下手をすると上役になっている可能性すら、ある(実例は、ある)。
多くの指導医は「自分の科にこない」という理由で初期研修医や学生をないがしろにする。しかし、現在の医療は丸山眞男が「たこつぼ」と呼んで嫌った閉鎖的な縦割り社会を許さない。カッティングエッジな最先端の血管内カテを駆使する脳外科医でも(であるからこそ)術後の人工呼吸器管理はベンティレーターのプロに任せなければならないし、患者の心機能、腎機能が正常なままとは限らない。感染症は起きるし、栄養は管理せねばならないし、せん妄は起きるし、社会的な問題はあるし、転院先は探してもらわねばならないし、、、、自分の専門性がどんどん先鋭化していいけばしていくほど、「周囲の助け」は欠かせなくなる。昔見たいにやっつけ仕事で「おれが研修医の時はこういう抗菌薬使ってた」では通用しないのである。というか、こういう「おれの守備範囲外」の仕事は、他人に任せた方が絶対に楽である(これは一回体験してみれば、実感できる)。
だから、自分の科にこない研修医をないがしろにしてはならない。彼、彼女は5年後、10年後に自分を助けてくれる大事なパートナーになる可能性は高いのである。そのとき、「あの先生はおれが研修医のときにひどい扱いだった」と意趣返しをされないようにしなければならないのである。
自分の立場からしか語らない、というのがリスコミにおいては最大の誤謬となる。ある一方のリスクばかりに注目して、他方のリスクを意識、無意識的に無視してしまうからだ。
反原発派は原発のリスクばかりを考えて、電力がなくなるリスク、経済のリスク、国防のリスクを意識、無意識的に無視してしまう。親原発派は放射線、放射能のリスクを、、、以下同文。
自分の派閥を離れ、党派性を超えて、両方のリスクを同じような眼で見なければ真に効果的なリスコミは不可能である。ワクチンのリスクばかり見ていて感染症のリスクを無視したり、その逆、、、というのはだめなのである。「なんとか派」というのはそもそもリスクを語るのにふさわしくない。
という話を、日本職業・災害医学会学術大会でお話ししたのですが、これってなんか変ですかね。
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