山形浩生という方から僕の「主体性は教えられるか」に対する書評(?)をいただきました。故あってこれにコメントすることになったので、以下に記します。本当はこんな文章書きたくなかったのですが、いきがかり上仕方ありませんでした。
もとの書評(?)
http://d.hatena.ne.jp/wlj-Friday/20120322/1332388044
では、いきます。
著者はお医者さんで、最近の連中は主体性がない、と嘆いている。
・違います。「最近の連中」ではありません。
正直、ぼくが医学生だった20年以上前も現在と比べて学生が主体性を持っていたとは思わない(76ページ)、、、以下、昔の日本人も同じであったと説明しています。
でも、評価しないでかわりに何を? その道一筋の名医みたいなのがいると、生徒たちはその医者から鬼気迫る迫力を感じて本質を見抜くような態度を身につけるんだってさ。
・主体性の涵養はどうすればよいのか、本書では最終的な回答を出していません(あとがきにそう書いています)。「名医みたいなの」の意味は不明ですが、「鬼気迫る迫力を感じて本質を見抜く」などとは主張していません。そもそも、「本質を見抜くような態度」って日本語として意味不明です。どんな態度なのでしょう。
「ぼくは言語化できない『場の雰囲気』を大切にする。教育にはビートやリズムが必要である。リズムが途切れ、ビートのない、雰囲気(アトモスフィア)が醸し出されない教育メソッド、息吹を感じさせない教育メソッドは何かが足りないのである」
場の雰囲気重視は、すぐに「空気読め」的付和雷同先例主義につながる。
・場の雰囲気を「重視する」というのと「空気を読む」は同義ではありません。コンサート会場の雰囲気を盛り上げる営為は空気を読む行為とは違うでしょう。空気を読むとは、場の雰囲気が度のようなものか察知するというものですが、本書ではそのような主張はしていません。また、これは別の本(一秒もムダに生きない)に書きましたが、むしろ空気を読まない(ふり)が大事と書いています。
んでもって結局、主体性というのはある程度自由に任せつつ、独自に生えてくるのを涵養するしかない、という話だ。
・主体性の涵養はどうすればよいのか、本書では回答を出していません。だから、「○○しかない」というのは間違いです。(232ページ参照)
孤高といえば聞こえはいい。が、孤高と独善の境はどこに? あほな民間療法の孤高の医師とか、自然分娩の世界にはたくさんいる。
・おっしゃるとおりです。だから97ページに、「解剖学は面倒くさいから僕は勉強したくない」とか「癌はホメオパシーで治療すべき」という意見に流れるのはよくないと書いています。最終章をもう一度お読みいただければ分かりますが、孤高も独善もどちらも主張していません。確かに「孤高に堪えること」の大切さは述べています(192ページ)が、(のちにブログでも指摘されたように)その前に他者の言葉に耳を傾けることの重要性についても言及しています(186ページ)。本書のセグメントだけをあげつらわず、全体からご判断いただけるとありがたいです。
本書は森嶋通夫を(なぜか)ほめる。森嶋は党派制バリバリの日本学術界に決別した、と。でも、森嶋の晩年の著作はその党派への恨み言だらけ。日本はダメだ、日本の教育もダメだ、教育勅語を復活させろ(ホント! 岩波文化人がこんなこと言うなんて、とぼくは目をむきましたよ!)!! 決別できてないじゃん。単に派閥紛争に敗れて、未練たらたらだっただけでしょ。かれの学問的な業績は認めるが、でも多数派から決別した孤高の人とは思わない。が、著者はそういう区別ができないようだ。ついでに、なんか森嶋がアメリカにいかずイギリスに行ったのが、なにやら敢えて主流派に背を向けた孤高の貫徹だと思ってるそうなんだが……いやLSEも経済学ではものすごい主流派エスタブリッシュメントですので。実はここは、単に著者のアメリカコンプレックスがうっかり顔をのぞかせているだけなんだよね。
・まあ、森嶋氏への個人的感情はご自由にどうぞ、ですが、192ページに「森嶋ももちろん、立場や価値観を持つ人たちである」と書いており立場から自由であったと主張はしていません。
一方で本書は、外部の意見に耳を傾けろという。これは孤高とは相反することになりがちだ。さて、一線をどこに引く? 本書にその基準はない。だって、それは評価できないものなんだもん、しょうがないよねー……でいいんですか?
・もちろん、しょうがないとは申していません。
評価はいいけど問題もある。その通りだろう。だったら、何のための評価をどのくらいすべきか、というのを明確に言わなければ意味がない。好き勝手に時間をかける主体性は、医療の現場では文字通り致命的になりかねないのでは? マニュアルだけの医者やEBMは完璧ではないかもしれないけど、著者に言わせれば7割はそれでOKだという。で、主体性のある医師だと、その比率はどのくらいあがるんだろうか? なまじ思い込みの主体性を発揮したばかりに悪い治療が行われてしまう率はどのくらいなんだろうか?
・ここは本書の内容から外れたご意見なのでまあよいのですが、「好き勝手に時間をかける主体性」は日本語として変です。好き勝手なことをやるのに時間を費やす、、という意味でしょうか?それに、本書では好き勝手にやることが主体性なのではないと再三申し上げています。
そしてマニュアルだけでも7割いくなら、それはそれで評価されるべきという考え方もある。仮に主体的医師の成績が本当に高いとしても、全員に 主体性教育するよりマニュアル医者とそうでない(ドクターハウス的な)医者との最適ミックスみたいなのを考えたほうがいいんじゃないの? ミスター・ミヤ ジも、「エブリシング、バランスね、だにえるさん!」とおっしゃっています。本書はそのバランスを提示できず、徒弟制にあこがれてみせる。でもそれが本当 にいいのか? 評価しないからわかりませんよねー。ただ、徒弟制を守った江戸時代の医療はどこまで発達したか、あるいは最近のマニュアル評価型教育により 医療の実際の成果がどこまで落ちたかをある程度は見せないと、個別エピソードの羅列だけでは説得力はないと思う。でも、本書はホントにエピソードと個人的 な印象の羅列だけ。あまり調べ物せずに書き殴ったように思える。
・最初の文章はご意見なので、本書とは関係ないですね。
・さて、ミスター・ミヤジも徒弟制(と呼べるべきもの)使ってましたからこの文章はかなり意味不明ですが、医療の発達と医師の養成(それが徒弟制であれなんであれ)とは無関係ですから、議論が錯乱しています。本書では定量的な情報ではなく定性的な情報を扱っていますので「エピソードの羅列」になったのは致し方ないですが、そもそも定量的な評価では測れない所について議論しているので(これも本書で指摘しました)、当然だとも思います。
最初からバカみたいにたくさん登場する内田樹の 引用もなんとかならないかねえ。内田には少し恩義もあるので悪くは言いたくないが、かれも徒弟制が好きで(自分が先生になっちゃえば徒弟制はすばらしいか らねえ)、思いつきのいい加減な本ばっか量産しつつ、変なオカルトを垂れ流している人だが、本書もその寸前だと思う。ちなみに、なぜこの著者は内田樹だけ「内田樹先生」と先生づけで書くの? なんか徒弟関係でもあるわけ?
・内田先生を内田先生と呼ぶのには理由がありますが、理由を述べる気はないのでここではノーコメントです。どちらにしても、本書の内容とは関係ない八つ当たり的なコメントですね(この書評(?)全体が八つ当たり的ですが)。
で、最後はなでしこジャパンの活躍がすばらしい、あれこそ主体性の発露だ云々。書いてる当時は、なでしこジャパンは旬な話題だったんだろうが、すでに古びている。そしてそうした話題に後先考えずに飛びつく軽薄さが、本書自体の底の浅さをも示していると思う。書評しません。
・ここの部分を書いていたのは2011年12月から12年1月なので、「書いてる当時」云々は間違いです。それに、「ちゃんと」読んでいただければ分かりますが、旬だから話題にしたのではあり余せんし、なでしこ「そのもの」だけを採り出して話題にしたのではありません。
以上です。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。