通常、就労の男女差別はあってはならない。しかし、制度的に男女差別が公に行われている領域がある。それが助産師の領域だ。その根拠に「生理的な嫌悪感」とあるけれど(ほんとかな)、これは差別感情の公認である。こういう無茶苦茶なことが法的に認められているのは驚きだ。
もちろん、妊婦が女性の助産師を希望するのは、嗜好の問題だからかまわない。女性の医師を望んだり、女性の美容師を望んだりするのと同じである。しかし、嗜好の問題であれば逆の可能性も認められるから差別は回避されるのである。男性の医師を望んだり、男性の美容師を望む人がいて、その嗜好が尊重されていればそれでよいのである。これを一意的に法的に規制するのが問題なのだ。
こういう話をすると、男性の助産師だと女性の付添が必要で、マンパワー的に云々という反論がかえってくる。でも、ぼくは内科医だけど女性患者を診察するときは必ずナースが近くにいて、ぼく一人で診察することは絶対にしない。乳房の触診をするときなどは必ず近くに女性スタッフを付き添わせる(シャペロンという)。ぼくは感染症屋なのでときに内診もするけれども、もちろんナースが側にいる。こういうのは当然のたしなみでもあるし、少し悲しいけれども「理不尽なセクハラクレーム」への防御にもなっている。では、そのようなマンパワーを費やすのは効率が悪いからということで、女性内科医のみが認められたら、どうだろうか。まあ、女性だけで医療スタッフを充填しようとすれば別のマンパワー問題が起きるのだけど。
ハーヴァード大学医学校では、南北戦争のころ、女性が入学することを禁じていた。もちろん、黒人の入学も禁じていた(北部が黒人差別をしていたことは史実から明らかであり、単に奴隷制を経済的な理由で選択していなかっただけだ)。女性が医師になれない理由は、いくらでも思いつくことができた。「できない理由」を考えるのはとても簡単だからだ。ハーヴァードでのこの事実は、最優秀の頭脳が集う組織でも、最良の判断ができるとは限らないことを示している。
男性が助産師になれば、いろいろと問題があることはわかる。しかし、それは「できない理由」ではなく、「克服されるべき障壁」と認識されるべきだ。
以前は視覚障害があると医師にはなれなかった。今は、もちろんできる。身体的なハンディキャップは「できない理由」にすれば、いくらでもすることができる。「克服されるべき」課題にすれば、たいていのことは克服できる。要は問題の捉え方の問題である。
ぼくの知っている医師に聴覚障害を持つひとがいる。電話でのコミュニケーションが困難なので、そのときは隣でナースが介助する。この医師を「マンパワー的に問題だから」と排除することは可能である。「できない理由」だ。しかし、それでよいのだろうか。そのような論理こそがハンディキャップを持つ者が社会から排除される容易な動機付けになるのではないだろうか。医療者はむしろ、このようなハンディキャップを克服すべく、最大限の支援を行うようなメンタリティーをその根源に必要としているのではないだろうか。患者とは、ほとんどの場合そのようなハンディを背負っている人たちなのだから。
助産師になる際、男性であることは明らかにハンディである。繰り返すが、個人の妊婦がこれを忌避するのは仕方ない。しかし、法律がこれを拒む、チャンスを奪うのは容認できない。同じ根拠であらゆる差別的な排除が可能になるからだ。
それに、「他者」の存在は集団に新しい可能性をもたらすものだ。ぼくが初期研修医のころ、男性のナースはまれな存在だったが、とても優しい人が多かった。ナースになりたいという意志を持つマイノリティーなので、セレクションがかかっていたのだろう。これに対し、女性がナースであることは当時当たり前であり、そのセレクションがかからないぶん、(あくまでも一般論ですが)ある方面で過度に厳しい人もいた。しかし、男性ナースの「ある種の」優しさが普及し、女性ナースがこれに刺激されて近年の女性ナースは昔に比べてずっと優しくなっている、、、ような気がする。逆のことは医師にもいえる。以前に比べ、女性医師が増加したことで、男性医師は昔より優しくなっていると思う。女性医師の良い所から学ぶのである。
「他者」の存在は、そういう影響をもたらすのだ(だから、ぼくは外国人医療者の参入には賛成である)。他者は、しばしば新しい価値観をもたらす。そのきっかけを与える。等質な人間だけの集団はたいていいつかは停滞していく集団である。これは助産師だけの問題ではなく、社会のあり方そのものに関係した、一般的な命題なのだ。
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