アメリカと日本を語る時、ひとはすぐに「違い」を語ろうとしますが、ぼくはどちらかというと「共通点」から語りたいと思います。類化性能をより強く発動させたほうが両国のことはよく分かるからです。世界的にみた場合、日米両国はどちらかというと似た者同士です。だからこそ、両者は長く同盟関係を築いてこれたのですし、ずるずるべったりの対米追従路線も長続きしたのでしょう(同じ条件は、例えばドイツには適応されなかったのです)。
ルイ・メナンドの「メタフィジカル・クラブ」でオリバー・ウェンデル・ホウムズが紹介されています。ハーヴァード医学校を卒業した医学者であり、判事であり、作家であります。彼は南北戦争を戦った人でした。
南北戦争は、現在の我々が想像するような「悪しき奴隷制を維持するにっくき南部を正義の北部が救い出す」戦争ではなかったようです。1850年までは北部は南部の奴隷制についてなんら関心を抱いていないようでした。南部は経済的に豊かで、北部を金銭的に支えてくれていたのです。北部に奴隷制が拡大することは望まないけれど、南部を失うことは絶対的なタブーでした。「その危険を冒してまで南部に圧力をかけ、奴隷制の放棄を迫りたいとは考えていなかった」(上掲書8ページ)のです。それに、北部であっても黒人差別は露骨でした。当時ハーヴァード医学校に入学を志願した黒人に、ホウムズは入学許可を与えようとしましたが、それに強く反対したのは「黒人学生と同列に扱われることに同意できない(11ページ)」医学生でした。
ところが、南部が奴隷に対する態度を強くし、逃亡奴隷法(1850年)により、北部に逃亡した南部奴隷を逮捕するのに北部に捜査官を送り込むようになり、「反奴隷制活動家」が生じます。彼らは、黒人差別に反対したのではなく、北部に逃げ込み、自分たちの「所有物」になっていた黒人を南部の捜査官に奪還されることに怒りを覚えたのでした。そして、南部に対する反感は強まっていき、最終的に南北戦争につながっていきます。また、僕らは北部が自由を尊び、南部がそれを嫌うようなイメージを持ちがちですが、北部は工業化が進んでおり欧州に対峙するため保護貿易を望み、綿花産業がうまくいっていた南部はそれを嫌って自由貿易を望んでいました。
反奴隷制活動家をホウムズは嫌っていました。彼らは正しければ何をやってもよい(戦争、人殺しも含む)という手前勝手な人たちだったからです。彼は「固定観念は暴力につうじる」(64ページ)といい、「奴隷制廃止論者たちには決まり文句があります。彼らが正しいと知るとおりに行為しない人は、ならず者か愚か者だというのです」と書き、また彼らを指して「カルヴァンはカトリック教徒たちを、カトリック教徒たちはカルヴァンのことを、それぞれそう思っていました。それゆえ現今、禁酒法支持をすでに決め込んだ人たちが、その敵対者をもっと悪く思っていることを私は信じて疑いません。自分の無知に対して無知になるとき、迫害は簡単にはじまります」と書いています(65ページ)。これらの言葉はそっくり現代のあれやこれやにも通用する言葉です。
「正しさ」という概念に対するナイーブな信憑と、それを錦の御旗に何をやっても構わないという手前勝手さは、今のアメリカ、そして日本でも散見される共通な態度です。もっとも、ホウムズは彼らに対して辛辣な批判を述べたものの、彼らがいなくなればよいとも思っていなかったそうです。むしろあったのは、「人間なんてたいていはこんなものだ」という諦観でした。さて、我々はどうでしょうか。
もちろん、「メタフィジカル・クラブ」は歴史の見方の一側面に過ぎず、その全てではありません。人間は党派性から完全には自由になれませんから、異なる立場にいる人は異なった観点から南北戦争を語るでしょう。まあ、こういう話もあるよという、お話でした、今回は。
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