日本人が戦争を語るのとは異なる語り方で戦争を語る本。ヤスパースの語り口はレヴィナスのそれにとても近いと僕は感じているが、ヤスパースは「ドイツ人」として加害者であるという意識を明確にしたうえでそれでも誇り高きドイツ人としてドイツ人を愛するという立場をとる。
日本人は悪かった。日本人は悪くない。このような一意的な語り口が多い中、とても成熟した卓見だと思う。大人はyes but,と上手に言えるほうがよい。
「われわれは語り合うということを学びたいものである。つまり自分の意見を繰り返すばかりでなく、相手方の考えているところを聞きたいものである。主張するだけでなく、全般的な関連を眼中に置いて思索し、理のあるところに耳を傾け、新たな洞察を得るだけの心構えを失いたくないものである。ひとまず相手方を認め、内面的にためしに相手方の立場に立ちたいものである。いやむしろ自分と反対の説を大いに探し求めたいものである。反対者は真理に到達する上からみて、賛成者よりも大事である。反対論のうちに共通点を捉えることは、互いに相容れない立場を早急に固定させ、そういう立場との話し合いを見込みのないものとして打ち切ってしまうよりも重要である。
明確な判断を思い入れよろしく代弁するのは容易であるが、心静かに物事を見きわめ、あらゆる対象の知識を具えて真理を洞見するのは、なまやさしいことではない。頑固な主張を掲げて精神的な交流を断つのは容易であるが、絶えず主張を乗り越えて真理の根基に深く入り込むのは、なまやさしいことではない。一つの意見を取り上げてしっかと掴まえ、もはやこれ以上の思索は御免こうむるというのは容易であるが、一歩一歩とまた前進し、どこまでも問い進むことを決して拒まないということは、なまやさしいことではない。
何ごとをも、まるで大見出しのプラカードのような形で始めから用意しておく傾向を斥けて、大いに思索しようとする心構えを取り戻さなければならない。そのためには、誇りとか絶望とか憤激とか横柄さとか復讐心とか軽蔑とかいった感情に我を忘れることなく、こうした感情を冷却させて、どういうことが現実的な事実であるかを見ていく必要がある。真理を見きわめるために、愛の心をもって世に生きるために、そういった感情の発動を抑えなければならない」
他にも引用したいところはたくさんあるが、きりがないのでやめておく。これは1945−46年(戦後)、「ほれみたことか」とドイツ人を、ドイツを糾弾する内外の「居丈高な」声に対するヤスパースの語り口である。まるで今の我々に対して語られる語り口としか聞こえない。
原発問題に対する議論が「居丈高」になっている。「ほれみたことか」と他者を罵倒する語り口ばかりが目に付くようになる。僕はラージメディアについて半絶望的であったが、昨今のブログ、ツイッターといったスモール・メディアの罵倒的語り口にもややうんざりである。その語り口はまるでラージ・メディアの一番いけないところそのもののエピゴーネンではないか。男の悪いところばかりを真似して鼻息の荒い(昔の)フェミニストや、反権力を唱えたリベラリストが権力奪回してディクテイターになるのと同じである。
昨日辺境ラジオを聞いていたが、なかなか興味深かった。ある政治家が、内田樹さんに会って菅直人と現政権をボロボロに非難していた。内田さんが「ではあなたが総理だったら、どういう対応をしていましたか?」と訊いたらその政治家は「そういう仮定の質問には答えられない」と答えたという。「なんだ、別にベターな案を持っているわけじゃないんだ」と思われた由。
今回の地震も津波も原発も放射線も、未曾有の極めつけな難問ばかりであり、イージーソリューションはどこにもない。あちらを立てればこちらが立たずで、どういうプランをとっても瑕疵・問題が生じる。外国の政治家ならノープロブレムということもなく、アメリカでは竜巻が原発を停止させ、その後のプランはコントロバーシャルである。アルカイダのトップを裁判にもかけずに殺してしまうというのもコントロバーシャルな判断である。およそ政治判断に、瑕疵の生じない、コントロバーシーの生じない判断は存在しない。
疎開をすべきという意見がでる一方で、危険を(どういう危険かはともかく)承知で自宅に帰ったり残ったりする選択をとる人もいる。それが普通なのだと僕は思う。いろいろな選択をとるというのが当たり前なのだと僕は思う。「こうすればよい」とシングルアンサーしか示さず、他者の言葉に耳を傾けないファンダメンタルなソリューションは、評論家の口からは出せても責任ある立場の人間からは出せるわけがない。
日本人は悪かった。日本人は悪くない。このような一意的な語り口が多い中、とても成熟した卓見だと思う。大人はyes but,と上手に言えるほうがよい。
「われわれは語り合うということを学びたいものである。つまり自分の意見を繰り返すばかりでなく、相手方の考えているところを聞きたいものである。主張するだけでなく、全般的な関連を眼中に置いて思索し、理のあるところに耳を傾け、新たな洞察を得るだけの心構えを失いたくないものである。ひとまず相手方を認め、内面的にためしに相手方の立場に立ちたいものである。いやむしろ自分と反対の説を大いに探し求めたいものである。反対者は真理に到達する上からみて、賛成者よりも大事である。反対論のうちに共通点を捉えることは、互いに相容れない立場を早急に固定させ、そういう立場との話し合いを見込みのないものとして打ち切ってしまうよりも重要である。
明確な判断を思い入れよろしく代弁するのは容易であるが、心静かに物事を見きわめ、あらゆる対象の知識を具えて真理を洞見するのは、なまやさしいことではない。頑固な主張を掲げて精神的な交流を断つのは容易であるが、絶えず主張を乗り越えて真理の根基に深く入り込むのは、なまやさしいことではない。一つの意見を取り上げてしっかと掴まえ、もはやこれ以上の思索は御免こうむるというのは容易であるが、一歩一歩とまた前進し、どこまでも問い進むことを決して拒まないということは、なまやさしいことではない。
何ごとをも、まるで大見出しのプラカードのような形で始めから用意しておく傾向を斥けて、大いに思索しようとする心構えを取り戻さなければならない。そのためには、誇りとか絶望とか憤激とか横柄さとか復讐心とか軽蔑とかいった感情に我を忘れることなく、こうした感情を冷却させて、どういうことが現実的な事実であるかを見ていく必要がある。真理を見きわめるために、愛の心をもって世に生きるために、そういった感情の発動を抑えなければならない」
他にも引用したいところはたくさんあるが、きりがないのでやめておく。これは1945−46年(戦後)、「ほれみたことか」とドイツ人を、ドイツを糾弾する内外の「居丈高な」声に対するヤスパースの語り口である。まるで今の我々に対して語られる語り口としか聞こえない。
原発問題に対する議論が「居丈高」になっている。「ほれみたことか」と他者を罵倒する語り口ばかりが目に付くようになる。僕はラージメディアについて半絶望的であったが、昨今のブログ、ツイッターといったスモール・メディアの罵倒的語り口にもややうんざりである。その語り口はまるでラージ・メディアの一番いけないところそのもののエピゴーネンではないか。男の悪いところばかりを真似して鼻息の荒い(昔の)フェミニストや、反権力を唱えたリベラリストが権力奪回してディクテイターになるのと同じである。
昨日辺境ラジオを聞いていたが、なかなか興味深かった。ある政治家が、内田樹さんに会って菅直人と現政権をボロボロに非難していた。内田さんが「ではあなたが総理だったら、どういう対応をしていましたか?」と訊いたらその政治家は「そういう仮定の質問には答えられない」と答えたという。「なんだ、別にベターな案を持っているわけじゃないんだ」と思われた由。
今回の地震も津波も原発も放射線も、未曾有の極めつけな難問ばかりであり、イージーソリューションはどこにもない。あちらを立てればこちらが立たずで、どういうプランをとっても瑕疵・問題が生じる。外国の政治家ならノープロブレムということもなく、アメリカでは竜巻が原発を停止させ、その後のプランはコントロバーシャルである。アルカイダのトップを裁判にもかけずに殺してしまうというのもコントロバーシャルな判断である。およそ政治判断に、瑕疵の生じない、コントロバーシーの生じない判断は存在しない。
疎開をすべきという意見がでる一方で、危険を(どういう危険かはともかく)承知で自宅に帰ったり残ったりする選択をとる人もいる。それが普通なのだと僕は思う。いろいろな選択をとるというのが当たり前なのだと僕は思う。「こうすればよい」とシングルアンサーしか示さず、他者の言葉に耳を傾けないファンダメンタルなソリューションは、評論家の口からは出せても責任ある立場の人間からは出せるわけがない。
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