学生がウィキペディアを引用して良いか?という命題がある。多くの先生はこれを禁じている(アメリカでも同じ)。
僕の態度は、「別にいいですよ。ただし、引用していることが明示されていれば」である。基本的に内田樹さんと同じスタンスである。
http://blog.tatsuru.com/2011/01/09_1554.php
実のところ、僕もウィキペディアとかGoogleとかをもの調べによく使う。特に専門領域外ではとても便利なので重宝している。確かに、間違いはあるのかも知れないが、なにしろ便利さが極端に強くなってしまうので仕方ないのである。前にレイプ後の対応について文章を書いたことがある。このとき、僕は「レイプの定義」についてウィキペディアを参照し、その旨明記した。レイプの定義はひとそれぞれでそこでもめても仕方がないので、ウィキペディアではこうなっています、とさらりと書いたのである(僕の興味はその後の対応であって、「定義」することではなかったのです)。情報とは、要するに「使えれば」それでいいのである。
リスクは吟味したり認識するものである。リスクは否定してはいけない。リスクは多かれ少なかれ、どの領域にもなんにでもある。リスクは否定するのではなく、受け入れて、利益とバランスをとるのがよい。音楽やスポーツや文学やなにやらの情報収集をするとき、ウィキペディアのもたらす利益はリスクよりもずっとずっと大きい、、、ことが多い。
そんなことを言ったらエンサイクロペディア・ブリタニカなら間違えないのか?とか広辞苑なら大丈夫か?という「権威を盲信できるか」という命題になってしまう。たぶん、そういう「権威ある」文献でも間違い(や見解の相違)はあるだろう。New England Journal of Medicineに載った論文でもきちんと批判的に読むのが大事で決して盲信してはダメである。The Lancetに掲載された論文でもでっち上げだったりするのである(麻疹・自閉症論文騒ぎを参照)。誤謬の可能性を頭のどこかにおいておいて、バランスをとって用いるしかないのである。
もちろん、ウィキペディアしか引用しない学生は僕にその知的運用性や常識や情報収集能力に強い疑いを持たれてしまうだろう。そのようなリスクをあえて侵してもまともなレポートが書けるかどうか、、、である。その可能性はきわめて小さいと思うが、あえてイバラの道を選んだ学生を否定するつもりはない。医学生は基本的に「大人」として扱いたい。
ウィキペディアを引用した学生は否定しないが、「自分の言葉をもたない」レポートはたいていやり直しにしている。「UpToDateにこう書いてありました」「で、君はどう思うの?」「さあ、、、でもUpToDateに、、、」「悪いけどやりなおしです」。今年度も何度学生とこのようなやり取りをしただろう。自分の言葉を使っていなければ、New EnglandをひこうがNatureをひこうが関係ない。やりなおしである。それは、かつて僕らの先達たちがやっていた(今でもやっている)「うちの教授はこう言ってるんです」と論理的になんの代わりもない、知性の放棄である。
1月12日付の朝日新聞(杉本崇氏の署名記事)で、「性感染症、のどからも感染の恐れ 厚労相研究班」という記事がある。
引用(朝日新聞の記事を引用するのも、僕は否定しない)
淋病(りんびょう)やクラミジアなどの性感染症は、性器だけでなく、のども温床になっていることが、厚生労働省研究班などの調査でわかった。自覚症状がないまま、オーラルセックス(口を使った性行為)で広がる危険がある。
引用終わり
淋菌がのどにキャリア化して感染の懸念となることなんて1970年代には(あるいはそれ以前から)知られていたことである。クラミジアの咽頭キャリアかも周知の事実だ。そんなことはちょっと教科書かデータベースを検索すればすぐ分かることである。今回、それが日本の調査でも追認された、というだけの話である。これは先に読売新聞が経鼻インフルエンザワクチンの「開発」を記事にしたときと同じ構造だ。経鼻ワクチンもすでに実用化されている。いまさら「開発」といわれても仕様がない。それは新聞社の内的なプロトコルは満たし、コンプライアンスに問題がないとしても、限りなく文脈を欠いた記事である。文脈を無視して言葉を使うことができるのか?
日本の医学記事(科学記事)はこのような記者クラブ的な「だれだれさんがこう言っていました」というのが多い。そこには背景(バックグラウンド)の勉強も周辺の文脈の吟味もない。自分の言葉もない。ただただ、偉い人が(たぶん)リークした学術成果をそのまま「コピペ」しているだけである。神戸大の医学生でも、もう少しましなことをやる(ことが多い)。
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