僕は2ちゃんねるは見ないし、したがって投稿もしないが、ひろゆきさんの考え方にはとても共感する。おもしろいことだ。でも、よく考えてみたら、こういう表面的な矛盾は当然ありなのだと、思う。
http://d.hatena.ne.jp/wt5/20100503
http://hiro.asks.jp/68256.html
勝間和代さんは新書でデビューしたときは、上手くいっている人(と自称している人)をまねしていても仕方がない、と書いて、その考え方はとても共感できた。なのに、メジャーになってその彼女がどんどん彼女のエピゴーネンであることを薦めているのが、勝間さんの転倒と混乱を象徴していると思う。自分の世界観が世界観の全て、と考え出したときに没落が始まる。
いつも言っていることだが、感染症マネジメントの考え方も、これに近い。自分はこうする、というスタイルがある。しばしば間違ってしまうのが、「私はこうする」というのと「私がこうする以外のオプションを取るのは間違っている」を混用してしまうことである。これを間違えると、コンサルタントとしては致命的である。コンサルティーを故なく否定することになりかねないからだ。
今年の感染症学会の講演で、僕はこのような要旨をつくった。勝間和代さんは、ちょうどここでの「でわのかみ」的なピットフォールにはまっているのだと、思うのだ。
次に、複数ある抗菌薬のどれを選択するのが妥当であるか、考える。抗菌薬の選択はしばしば「慣習」が形作る。いつも使っているから、今日も使うという論法である。しかし、目の前にA, B, Cという3つの抗菌薬を用いる選択肢がある場合、やはりベストな抗菌薬を採択したい。「Aでも治る」ではなく、なぜBでもCでもなく、他ならぬAなのか、その根拠をできるだけ明確にしたい。根拠は感受性試験や最小阻止濃度(MIC)だけが決定するわけではない。臨床の現場はしばしば複雑系に支配され、意思決定も複雑な要素を加味した総合的な判断になる。抗菌薬の選択においてもそうである。
適切な抗菌薬を使用する阻害因子のひとつは、我々の心の中にある。「何となく不安だから」「とりあえず感染症をコントロールしたいから」「熱があるから」という理由で抗菌薬が選択される。自らの無知、バイアス、恐怖心、過去の成功体験、過去の失敗体験が我々の抗菌薬選択に影響を与えている。バイアスからまったく無縁でいることは不可能である。大切なのは「自分にバイアスがない」と頑迷に主張することではない。自分のバイアスに自覚的になり、謙虚にそのもたらす影響を自分の胸に問いかけながら真摯に一例、一例対峙していくだけなのだ。
単に感染症を診るのが好きな医師、感染症を診るのが得意な医師と、「感染症のプロ」との違いは、自分が正しい治療法を選択できるだけではなく、他人のやっている治療の妥当性を吟味できるかどうかにある。「俺はいつも○○を使っているのに、この人は違うことをやっている。おかしい」「アメリカではこういうとき皆○するのに、ここでは違うことをやっている」
しかし、「異なるアプローチ」と「間違ったアプローチ」は同一ではない。自らのスタイルを確立させるのは大切だが、そのスタイル以外のあり方を尊大に否定するのは危険である。そして、我々は充実したトレーニングを受ければ受けるほどこの誤謬に陥りやすい。感染症で有名な○○病院ではこうやっている、私はこうやってきた、、、、というのが○○病院でやっていることをやらないのは、間違い、という翻訳変換をされたとき、大きな大きなワナがそこには待ち受けているのである。これは、外国でトレーニングを受けたいわゆる「デハノカミ」がしばしば陥る誤謬である。
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