解説を書きました。初稿をここに紹介します。なおワクチンをDrヤンデルみたいに二度読みしないように。
2009年のノーベル医学生理学賞を受賞したのは、エリザベス・ブラックバーン、キャロル・グライダー、そしてジャック・ショスタクの3氏だった。細胞寿命の鍵を握る染色体の先端にある連続する塩基配列、テロメア、そしてテロメアを修復する酵素であるテロメラーゼの研究成果が受賞の理由であった。このテロメアがだんだん短縮していくとついに細胞は死亡する。細胞は永遠に分裂できる不死の存在ではないのだ。テロメアが短縮し、細胞が死に至る限界点をヘイフリック限界とよぶ。それにしても、エリザベス・ブラックバーンとキャロル・グライダーがテロメラーゼを発見したのはグライダーがまだ23歳のとき。カリフォルニア大学バークレー校の大学院生だった。ブラックバーンは同校の准教授でまだ30代だった。ジャック・ショスタクがハーヴァード・メディカルスクールの教授となり、ブラックバーンとテロメアの実験を議論したのは1980年の夏、まだショスタクが27歳のときだった。米国がいかに若手、そして女性を活躍させている国なのかを、このエピソードが端的に教えてくれている。
さて、そのヘイフリック限界である。言葉としては聞いたことがあっても、そもそもヘイフリックとはどういう人物なのか、本書「ワクチン・レース」を読むまでぼくは知らなかった。さらに恥を承知で告白するならば、ヘイフリックが現在のワクチン開発に大きく寄与してきた人物であることすら、知らなかった。
ワクチンは、現代医学最大の発明の一つである。医学・医療に与えた影響の大きさは計り知れない。ワクチンは世界中でたくさんの死者を出してきた天然痘を撲滅させ、麻疹による死者を激減させ、パピローマウイルスを原因とする子宮頸がんなど悪性疾患を将来撲滅させるプランを現実的なものとした(あと50年程度で実質的に撲滅されると推測されている。日本などワクチン後進国を除けば)。
細胞内に感染するウイルスに効果的で、かつ安全性の高い治療薬を開発するのは難事である。非常にざっくり申し上げるならば、人類の感染症の大部分はウイルス感染症と細菌感染症からできている。後者には多種多様な抗菌薬が開発され、そして多くの人命を救っている。ところが、世の中にはたくさんのウイルス感染症が存在するが、その種類の多彩なのに比べると現存する抗ウイルス薬は非常に少ない。決定的に感染症を治癒に導く抗ウイルス薬となると稀有なものだ。例えば、C型肝炎ウイルスに対するDAAと呼ばれる薬がC型肝炎に対するひとつの「決定打」であり、もしかしたらC型肝炎撲滅の切り札にすらなるかもしれないのだが、これが奇跡的な決定打であるのは、その他の抗ウイルス薬が(相対的には)「ぱっとしない」ことの逆説的な証左なのだ。本校執筆時世界中で猛威を振るう「パンデミック」を起こしている新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)感染治療においても(本稿執筆時点で)「決定打」が存在しないのは、驚きではないのだ。
しかし、決定的治療薬が希少であってもウイルス感染の多くには対峙できる。ワクチンが存在するからだ。本書、「ワクチン・レース」はそのようなウイルス感染に対抗するワクチン開発の物語である。
ワクチンにもいろいろな種類があるが、ウイルスに対するワクチンは、当該ウイルスそのものを用いて作ることが多い。「生きている」ワクチンを弱毒化、無毒化して、患者に病気を起こさないようにし、かつもとのウイルスに対する免疫を惹起するのである。そのウイルス=ワクチンが増殖能力を残していれば、それは「生きている」ワクチン、生(なま)ワクチンであり、ホルムアルデヒドなどで殺してしまったウイルスであれば、「不活化」ワクチンとなる。
ウイルスは細胞の中でしか増殖できない。だから、ワクチン開発には細胞が必要になる。ぼくは患者を見る臨床医学のプロなので、ウイルスそのものを研究したり、ワクチンを開発したことはない。だから、本書を読むまでワクチン製造における「細胞」の重要性を強く認識したことがなかった。
さて、ここで件のヘイフリックだ。レオナルド・ヘイフリックはフィラデルフィア生まれの細胞生物学者であり、本書の主人公の一人である。ヘイフリックはワクチン開発に必要な細胞を開発した。中絶手術で死亡した胎児の肺の細胞から得られた細胞、WI-38である。1960年代のことだった。
なぜ、人の胎児の細胞だったのか。当時のワクチン開発には、しばしば動物の細胞が用いられた。例えば、サルの腎臓細胞のような。
しかし、こうした動物由来の細胞でワクチンを開発する場合、懸念されるリスクが存在した。例えば、そうした細胞が別のウイルスに感染し、汚染されている可能性だ。
ウイルスは「いわゆる」感染症を起こすだけとは限らない。別の病気の原因にもなる。例えば、悪性腫瘍、いわゆる「がん」である。前述のC型肝炎ウイルスは肝炎という「感染症」を起こすだけでなく、肝臓のがんの原因となる。パピローマウイルスが子宮頸がんなどの人間のがんの原因になることもすでに述べた。
本書におけるもうひとりの重要人物がバーニス・エディー。米国最大の医学研究所、NIH(国立健康研究所)のDBS(生物製剤基準部門)で長年ワクチンの承認・認可業務を行ってきた。
1954年に彼女が評価したのは、ジョナス・ソークが開発したポリオワクチンだった。
ポリオはポリオウイルスが起こす感染症だ。神経に感染するのが特徴で、いわゆる「小児麻痺」の原因である。現在では非常にまれな病気になり、世界からの撲滅一歩手前の状況にあるポリオだが、これは効果的なワクチンが普及したおかげである。ポリオワクチンがない時代、多くの人たちがポリオに苦しんでいた。米国のフランクリン・ルーズベルト大統領も30代でポリオにかかり、大統領就任後も車椅子で執務を行っていたという。本書によると米国では1952年にポリオの大流行があり、5万8千人の感染、そしてそのうち2万1千人以上に麻痺が残ったという。
ソークはポリオワクチン開発者としてあまりに有名だ。我々医者はは学生時代、ポリオワクチンの開発者として二人のアメリカ人、ソークとサビンの名前を暗記する。ソークはポリオウイルスを死滅させた「不活化」ワクチンを、サビンは生きたままの「生ワクチン」を開発した(両者を間違えずに暗記するのが試験のキモだった)。
医学書では英雄的に記載されるソークとサビンだが、本書ではむしろ両名のダークサイドが強調されている。ソークが開発した不活化ワクチンは、その中でホルムアルデヒドによるウイルス死滅が不十分なワクチンが混入していた。生きたポリオウイルスを分離したのはバーニス・エディーである。このワクチンをサルに注射すると数匹が麻痺を起こしてしまったのだ。この結果をエディーは上層部に報告するが、その報告は無視され、カッター社のポリオワクチンはDBSで認可されてしまう。その後、このワクチンの集団接種のために192人が麻痺を起こし、10人が死亡し、米国政府はワクチンを回収せざるを得なかった。ワクチンに対する不信感から接種率も低下し、「本物の」ポリオ患者も増加したという。
ワクチン製造の不備を告発したエディーだが、その告発は無視され、多くの被害者が発生し、エディーはポリオワクチンの仕事を外されてしまった。本書は米国医学研究の「光」の部分、、、、非常に優秀な研究者のトップレベルの開発の歴史、、、、のみならず、「影」の部分、、、、利権がらみのワクチン開発や研究競争の中でのパワハラ、いじめ、足の引っ張り合いという側面も克明に記録している。正しい、しかし不都合な真実を告発すると迫害される。不備のある感染防御を告発してクルーズ船から追い出されたぼくには、痛いほどよく理解できる事実だ。そして、こういうことは日本独自の「病理」ではない。
エディーの活躍(そして不幸)はこれにとどまらない。ワクチン開発に用いるサルの腎臓細胞がSV40というウイルスに汚染され、それがハムスターの腫瘍の原因になっていたことを突き止めたのである。サルの心臓細胞はしばしばSV40というウイルスに汚染されている。C型肝炎ウイルスやパピローマウイルスのように悪性腫瘍の原因となるウイルスだ。サルの腎臓細胞を用いたワクチンの安全性に疑問を持ったエディーは自分の発見を論文にして発表し、これはすぐにメディアに紹介されて大きな問題になった。エディーはこの「功績」のためにDBSの上司スマデルに叱責され、論文発表を遅らせられ、そして部門長のマレーからワクチン安全検証部門から解任されてしまった。
ヘイフリックも不遇をかこった。彼はウィスター解剖・生物学研究所で、ウイルス感染がなく、より安全にワクチンを製造できるWI-38細胞を開発したが、研究所内でヘイフリックは冷遇された。彼の上司、コブロフスキーはヘイフリックを正規の会員として扱わず、薄給のままに据え置きた。しかし、あろうことかコブロフスキー自身はヘイフリックのWI-38を供給して大儲けしようとしていたのだ。ヘイフリックは西海岸のスタンフォード大学に異動する。しかもあろうことか、ヘイフリックはWI-38のアンプルまで持ち出してしまったのだ。その後、ヘイフリックはWI-38の権利を巡って長い法廷での抗争に翻弄されることになる。相手はアメリカ合衆国政府、そしてNIHだ。
本書の主人公のひとり、スタンレー・プロトキンは感染症界では知らぬものはいない、著名な人物だ。我々の間で「プロトキンとして知られる」ワクチン学のバイブル的教科書の執筆者なのだ。我々はワクチンについてなにか調べたいことがあると、まず「プロトキン」を開くことから始めるのだ。
プロトキンもまた、ヘイフリックと同じくウィスター研究所に赴任し、ここでワクチン開発に従事していた。ターゲットは風疹である。
風疹は別名、「三日ばしか」とも呼ばれるウイルス感染症だ。つまりは、はしか(麻疹)のような症状が出るけれども三日もあれば回復するという、「軽い病気」の原因なのである。多くの人は風疹に罹患しても早晩、自然に治癒する。
しかし、問題なのは妊婦の感染である。風疹ウイルスは人間の様々な細胞に感染することができる。妊婦が風疹に感染すると、胎児の様々な細胞にウイルスは入り込み、その分裂速度を遅くする。そして、細胞の死がより早期にやってくるのだ。生まれてきた子供は脳炎を起こし、膵臓の細胞感染のために糖尿病になりやすく、目に感染して白内障や緑内障を患い、聴覚に異常が生じ、心臓に異常を起こし、先天性心疾患の原因となる。先天性風疹症候群(CRS)だ。周期的に流行する風疹を治療する術はない。必要なのはワクチンである。
ウイルスに対するワクチン開発には感染させる細胞が必要だ。しかし、風疹ウイルスに感染した細胞は細胞死を起こしやすい。
しかし、プロトキンはヘイフリックのWI-38細胞を用いてこの問題を克服する。WI-38細胞に風疹ウイルスを感染させると、大量のウイルス粒子が作り出されることが判明したのだ。このウイルス粒子を弱毒化できれば、風疹ワクチンを開発できる。
プロトキンは風疹に罹患した妊婦が中絶し、得られた胎児の腎臓組織から生育良好な風疹ウイルスを採取した。27番目の胎児から得られたRA27/3である。このウイルスをWI-38に感染させ、ついにはこれがRA27/3と呼ばれる風疹ワクチンとなった。安全かつ効果の大きなこのワクチンは米国での標準的なワクチンとして使用されるようになる。1989年に米国は風疹とCRSを2000年までに排除する目標を設定し、麻疹、風疹、おたふく風邪(ムンプス)の3種混合ワクチンを推奨予防接種プログラムに組み込んで高い予防接種率を維持した。21世紀になって米国での風疹は激減し、CRSも稀有なものとなった(そのほとんどは外国での輸入例だ)。現在、RA27/3は欧米での標準的な風疹ワクチンになっている。そして、「ワクチン後進国」の日本ではまたしてもこの予防接種の普及が遅れ、風疹の撲滅、そしてCRSの根絶には至っていない。
ヘイフリックのWI-38も「世界標準」となった。WI-38は風疹、ポリオ、麻疹、おたふく風邪、水痘(みずぼうそう)、狂犬病、そしてA型肝炎ワクチンの製造に使われ、世界中でこうしたワクチンが活躍している。本書で紹介されているように狂犬病は罹患するとほぼ100%死亡する非常に恐ろしい感染症だが、ワクチンを接種することで発症を防止できる。そのインパクトは非常に大きなものであった。
WI-38細胞の安全性をプロトキンが論じていたある会合で、彼に反論した人物がいた。アルバート・サビンである。ソークとサビン。米国のワクチン界の巨人は当時62歳、対するプロトキンはサビンの息子といっても良いくらい若かった。サビンは優れたワクチン学者であり、ニューヨーク大学の学生だったときは討論部で負け知らずの論客だったが、「底意地の悪いクソ野郎」(316ページ)で、あちこちの会合で研究者にケチをつけて回る、鼻持ちならない人物だったという。まあ、国内外を問わずこういう「クソジジイ」は医学界では珍しくはない。サビンはここでもWI-38の安全性にケチをつけたのだ。
日本であれば、若手研究者がこのようなクソジジイに難癖つけられたら、「貴重なご意見をいただきありがとうございました」と頭を下げて逃げるのが定石だ。しかし、プロトキンは逃げない。そして、若者が逃げないような風土が米国の感染症研究をドライブしてきたのだ。彼はサビンの見解は科学というよりも「神学」にすぎないと断罪し、返す刀でプロトキンの発言を遮ろうとしていたマレー(エディーを解任した、あのマレーだ)にも噛み付いた。会場は万雷の拍手が起きたという。
本書は輝かしい、米国におけるワクチン開発史だ。同時に、本書は米国のワクチン開発黒歴史でもある。そこには足を引っ張る輩がいて、ごまかしをやらかそうとする輩がいて、都合の悪い事実を隠蔽しようとする輩がいて、パワハラまがいの言いがかりをつける「クソジジイ」がいる。要するに、この業界、米国も日本もさして変わらないのである。
では、両国で何が違うのか。日本では、こうした状況下で忖度する。沈黙する。そしてやり過ごしてしまう。波風を立てず、調和を乱さないことが正義を貫くことや真実を尊重すること、しいては科学的に行動することよりも優先するのだ。
日本で「やられたら、やり返す」バンカーの物語が大人気なのは、それがこの国に実在しない人物であり、存在しない物語、フェアリーテイルだからだ。米国で金儲けに興味を持たない紳士、フィリップ・マーロウが実在しない騎士として人気を博しているように。
2020年8月24日
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