塩野七生の「ローマ人の物語」に挑戦している。「挑戦している」と書いたのは、一度挫折しているからだ。いや、正直に白状すると一度なんてものではない。
ぼくは基本アホなので、新しいジャンルの本を読んで即座に理解する能力がない。「よくわからん」となる。
高校時代取らなかった世界史が苦手で(といっても、取った日本史も大したことないけど)、ギリシア・ローマ史についても全く無知、無関心だった。塩野の「ローマ人の物語」はローマの建国史から始まる。ここが門外漢にはつらい。知らない個人名がたくさんでてきて、挫折する。この第一巻を読破するのに時間がかかった。これはプルーストの「失われたときを求めて」でも同じで、この大著の第一巻読破に10年以上かかっている。
第一巻さえ読破してしまえば、あとはやや楽になる。その後は割とスイスイ読めていたのだが、忙しさにかまけて中断、そのまま何年もほったらかしていた。最近、ようやく気持ちに余裕を持って本を読めるようになったので、ここぞとばかりに再読している。
再読すると、以前は全然理解していなかったことや、「つまらない」と思っていたところが面白く思えてくる。一度読んだだけでその本の価値を即断してしまうのが危険な理由だ(だから密林などのレーティングに軽々しく手を出さない方がよいのだ)。
とくに「つまらない」が「面白く」なってきたのはローマの政治である。「物語」には税金や奴隷の扱い、市民権の扱い、徴兵のルールなどが事細かに書かれているが、ぼくは昔から政治が苦手、というか嫌いだったので、このへんの面白さが伝わってこなかった。
しかし、「苦手」と決めつけていた政治はいわゆる日本的な根回し、駆け引き、足の引っ張りあいのそれで、ポリシーメイキングとしての本来のポリティクスは、非常に興味深いジャンルなのだと最近になってようやく気がついた。「根回し、駆け引き、足の引っ張りあいの持つ意味合い」もだんだん分かってきた(が、日本のそれがよいとは思っていない)。こないだケイジ・フクダ先生たちと感染症のポリティクスについて議論する機会があったが、数年前よりは質の高い理路で議論に参加できていたんじゃないだろうか、と思う。
先日、後藤道彦先生にお会いした時、彼らの時代の沖縄県立中部病院の政治的苦境のエピソードを教えていただいた。現場でゴリゴリ臨床やっている人たちは基本的にポリティクスが嫌いなのだが、それではこうした政治的苦境で生き延びられないのだ、という非常に耳の痛い話だった。
事程左様に、我々はともすると自分の属していないジャンルを嫌い、軽蔑し、そして理解すること、理解しようとすることすら拒絶する。要するにこれが「バカの壁」である。いま、ぼくはポリティクスについての己の「バカの壁」を打ち壊さんと必死なのである。
ところで、最近注目しだした歴史学者の磯田道史氏が司馬遼太郎を非常に尊敬している、という話を聞いてとても驚いた。
多くの場合、学者は素人を嫌い、ときに軽蔑する。歴史学者が「学者でない」司馬遼太郎を低く貶めることはあっても、逆はないと思っていたのだ。前述の塩野にしても同様で、(ベストセラーを出していることへの嫉妬心も絡んで)「専門家」は口汚く罵るのだとばかり思っていた(そんなことなかったら、ごめんなさい)。
しかし、専門家というのはえてして細かいことにこだわり過ぎて全体像や世界観を見失っていたりもするものだ。大胆な仮説を出すのに臆病になることもある。学問的ブレイクスルーがその大胆な仮説を源泉にしているのだから、これは本来は矛盾なのだが、しばしばそういうことになる。
学問の進歩は、演繹法と帰納法のせめぎあいである。演繹法で仮説がなされ、帰納法でそれを検証する。
EBM全盛の時代に、演繹法なんて意味がないと思う人もいるかもしれないが、そもそも演繹無くして帰納はないのだ。妥当性を失った仮説に基づく「なんか知らんけど、いろいろ試してみました」な臨床試験は臨床的に意味がなく、倫理的に患者に申し訳なく、そして(無意味に量産される臨床試験は確率的誤謬を確実に導くという点から)学問的にも間違っている。演繹と帰納は表裏一体なのだ。
医学の世界は、長くドイツ観念論による進歩が起こってきたが、その観念が「頭でっかち」「机上の空論」になりがちな反省から(脚気論争を見よ!)、帰納法たるEBMが勃興した。それはいい。しかし、帰納法なき演繹法が「頭でっかち」ならば、演繹法なき帰納法は「頭がない」ということなのだ。両者はお高いを尊重しあい、高めあってこそのものである。
NEJMなどはパースペクティブを出していて、演繹的展望や仮説を提唱していて、これは素晴らしい習慣である。ただ、NEJMの場合はこうしたパースペクティブは確立された第一人者に与えられた特権となってしまい、帰納法的検証論文と異なり、査読によるクリティークは少ない。
査読者は現在的学問の知識能力が確立している人物が選ばれるが、それが故に大胆な仮説には否定的な態度をとりだちだ。ゼンメルワイス然り、レーウェンフック然り、である。よって医学論文では理論検証の論文は強いが、理論生成の論文は弱い。査読がつくがゆえに、大胆な仮説はリジェクトされやすい。エビデンスあるの?という軽蔑的リジェクトである。自分の能力の範疇の外にあるものの全否定。これもまた「バカの壁」なのだ。
自分の領域外を見てみると、学術面での業績は必ずしも査読付き論文でなされるわけではない。経済学ではしばしば書籍が業績となる。出版後に評価されるものも多い。先に上げた「査読」のピットフォールを考えると当然だ(ライバルに邪魔される、というリスクを横にどけておいても、である)。
臨床家の場合、臨床的知見の壁に当たると、文献を調べる。どの文献にも載っていない「壁」は多い。よって、「じゃ、研究してみよう」ということになる。臨床家が研究をする最大のモチベーションは「分からない、分かりたい」という欲望である。それは本来的には基礎研究者の欲望と何ら変わりない。
しかし、臨床家の軸足はあくまで臨床現場にあるのであり、「今、研究中だから患者は見れないよ」というのは本末転倒だ。実際に患者を見ていても心が研究に奪われていては診療の質は落ちる、、これは森鴎外が「カズイスチカ」で指摘したとおりだ。
トップレベルの研究者は朝から晩まで自分の専門領域の事を考えている先鋭的な人物だ。が、それでは臨床家は務まらない。よって、質の高い臨床家がトップレベルの研究者になるのは困難になる。「なんでもできる医者」に誰でも一度は憧れるのだが、ある手技の技術を極めようと思うと、朝から晩までその手技をせねばならない。そうすると他のことができなくなる。得ることは、失うことなのだ。
もちろん、一度得た知識や技術はいつだって役に立つ。今週は国際学会に参加したのだが、行き掛けに病人に遭遇した。なぜか、こういうことはよくあるのだ。今回の患者はけいれん発作だったのだが、飛行機の中でけいれん患者に遭遇したときも、過去に救急診療や集中治療や神経内科研修を受けていれば、基本的な初期対応はできる。ジェネラルなトレーニングは役に立つ。しかし、多種多様なてんかん患者に最良の薬を最良の投与量で提供するような技術をぼくは持たない。そのためには朝から晩までたくさんのてんかん患者を見続ける先鋭さが必要だからだ。
しかし、そのような先鋭さのあるスペシャリスト「しか」いなかったら、機上のけいれん患者が救われる可能性は極めて低くなる。そういうプロが乗り合わせる可能性は単純に確率的に激減するからだ。
臨床医にとって、適切な研究エフォートは人によって異なる。その人のキャパによって、その人の立ち位置によって。しかし、何かを得れば、何かを失うのは当然であり、研究エフォートが上がれば上がるほど、臨床エフォートは下がっていくものなのだ。実質的にも、メンタルにも。これに教育やらアドミやら経営などが入ってくるとさらに物事は雲散霧消していく。
年に20本論文を書く人と、10本書く人と、1本書く人でだれが一番偉いか。これはもちろん、誰が偉いという話はない。みんな、それぞれの軸足の置き方の問題なのだ。もっといえば、全く論文を書かないという選択肢だって十分にありえる。それは微分的にスタンスをスライドして徐々に動かしていけば、すぐに分かる。
論文を書いていなければ、その人物はその領域の素人であろうか。その領域について意見する資格を持たないのだろうか。答えはもちろん、否である。それは塩野七生はギリシア・ローマについて論ずるなんておかしい、とか司馬遼太郎は戦国時代や明治の歴史を語る資格がない、と意見するようなものだ。大事なのは見解の中身であり、意見の内容である。その人物の軸足の位置など、誰が気にする必要があろうか。それは単なる軸足の権威化にすぎない。そして、強固に高々と「バカの壁」を築いているに過ぎない。
よく議論になる博士号の有無もそうである。いつも申し上げているが、博士号取得は少しも悪いことではない。かといって必須とも必然とも思えぬ。殆どの場合、医学博士の所有は先鋭的でピンポイントな論文の審査で行われる。その世界観全体の把握や将来像の見通し能力を担保しているわけではない。よって、「その領域を論ずる」最良の人物であるとの保証もない(そうでないと言っているわけでもないが)。
臨床研究が一種のブームになっていて、それは喜ばしいことである。何が喜ばしいかというと、「選択肢」が増えたからだ。昔は研究者は研究、臨床家は臨床しかしないもの、と決めつけられていて、これはいわば白黒映画の世界であった。今はいろんなスタンスがもてるテクニカラーの時代である。
どのくらい臨床で、どのくらい研究なのが正しいのか。これは間違った命題だ。「正しさ」という命題なんてどこにもないのだ。あるべきではない。どんなスタンスだって正しいのである。ただ、自分が立っている軸足のその場所で、質を高めていけば良いだけの話なのだ。
ところが、このような臨床研究ブームの中で、「自分の立ち位置以外に住むもの」を軽蔑するコメントが目立つ。しかし、上記の理由でこれは単なる「バカの壁」にすぎない。これは昔あった、そして今もダイナソーに存在する「臨床研究なんて研究じゃない」と(誤って)蔑む基礎研究者の延長線上でしかない。もちろん、これは基礎研究者が悪いとかいう話ではまったくなく、その当時は臨床家だって、基礎の研究者を「臨床ができない」と蔑んでいたのだ。
他者をバカにするのではなく、他者がいるという選択肢の多さを「豊かだ」と喜ぶことのほうが大事なのだ。選択肢が2つしかない世界と、何重もある世界では後者のほうがずっと豊かな世界である。しかし、自分の世界が世界のすべてだと思い、蛸壺のなかに閉じこもってしまえばその豊かな世界を感得するチャンスも失われる。もったいない話なのである。
これはもちろん、批判をするなという意味でもない。批判は言説の中身を対象にすべきで、あるカテゴリーの人々の存在そのものではない、という話なだけだ。ぼくは非臨床家が臨床について妥当性の低い言説を持てば、その言説を批判する。批判していいのはそこまでだ。自分のカテゴリーにない人々がいる世界は、いない世界よりもずっとましなのだから。
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