新刊出ました。「はじめに」を転載します。
はじめに
こんにちは。岩田健太郎です。感染症などを診ている医者です。
本書は医療倫理に関する本です。医療における倫理とは、普通の社会における倫理の一バリエーションに過ぎません。すなわち、真偽とか好悪ではなく、「善し悪し」で物事を判断することを言います。倫理とは、「よい」「悪い」という価値判断の場なのです。
例えば、医者には患者さんの個人情報を正当な理由なく、患者さんの同意なくして第三者に漏洩してはならない、という「守秘義務」があります。それは倫理に照らし合わせてそうなのですが、よく考えたら、そんなのどこの社会でだってそうであります。Aさんの個人情報を正当な理由なく、Aさんの同意なくして第三者に漏洩するのは、倫理的には問題です。
というわけで、医療倫理も、一般社会における倫理の一亜型に過ぎません。では、なぜ単に「倫理」と言わずに「医療倫理」なのかというと、医療の世界特有の特徴もあるからです。例えば、ぼくたちは人の体に針を刺したり、メスで切り裂いたりする権利を持っています。普通だったら傷害罪で逮捕されるところを、そうはならないのは、我々が医療の世界にいるからであり、それを社会が容認しているからです。
では、どういうときにどういう患者に針を刺したり、メスを入れることが容認されるのか。それは、医学的な判断問題でもありますし、倫理の問題でもあります。むろん、正当な理由なくして患者を刺したり、メスを入れることは「倫理的に」容認されません。
まあ、医療倫理とはこういうことです。臓器移植、脳死判定、尊厳死、人工中絶、、、、医学の世界にはたくさんの倫理的な問題が横たわっています。テクニカルで難しい問題ばかりに見えますが、要するこれらの問題も、医療という独特の世界において倫理的に容認されるのか、されないのかを検討すべき問題です。医療倫理の問題は、一般社会における倫理の問題の一亜型として、そして同時に医療・医学に特有の問題として、我々の前に立ちはだかります。
ぼくは現場で診療する医者ですから、医療に関する倫理に無関心でいられません。自らの言動が患者や患者の家族に対する倫理性を担保しているかどうかは、ぼくらにとってはとても深刻なテーマです。
それと、ぼくは神戸大学医学研究科倫理委員会の委員長でもあります。倫理委員会の主な役割は患者を対象にした研究活動、臨床研究と呼ばれるものが倫理性を担保しているかどうかを検討することにあります。ぼく自身臨床研究を行いますが、自分の研究計画書を倫理委員会に審査してもらっていました。そこでいろいろな質問を受けるのですが、「それって倫理の質問と関係ないんじゃないですか」とか「そのご指摘は的を射ていないのではないのでしょうか」と思うことが多々ありました。普通、大学のような場所で審査を受ける立場にいる人はしおらしく、大人しく、審査委員のコメントや質問をじっと聞いているものですが、ぼくは納得いかないことはズケズケ言ってしまうほうなので(空気を読めない「ふり」をするのが得意なのです)、「それって筋の通らないコメントだと思います」と何度か反論しました。あいつは倫理の問題に一家言ある奴だ、というわけで、いつか自分自身倫理委員会のメンバーになり、そのままズルズルと委員長に就任、まあ、こういうわけです。
倫理委員長ですから、厚生労働省が出している各研究の「倫理指針」はよく存じています。アメリカを始めとする世界各国の医療倫理の原則も存じています。ヒポクラテスの誓いとか、ヘルシンキ宣言など、各種の医療・医学に関わる倫理指針も心得ています。倫理学の専門家ではありませんが、カント倫理学の定言命法やルソーの社会契約論、ロールズの正義論、リバタリアニズム、ハーバーマスやサンデルの共同体主義なども勉強しました。
しかし、ぼくはここでもあまり得心がいきませんでした。「指針」はこうしなさい、ああいうことをするな、と我々になすべきこと、なさざるべきことを教えます。しかし、「なぜ」そうしなければならないのか。「なぜ」そうしてはいけないのか、については十分に腑に落ちるものではありません。少なくとも、腑に落ちない部分も多いです。
例えば、インフォームド・コンセント。医療倫理における基本事項とみなされるこのインフォームド・コンセントは研究においても診療においても必要不可欠なものとみなされています。が、現実にはこのような書式手続きは医者と患者の心の距離を遠ざけ、医療の世界をよりギクシャクとしたものにしてしまいました。少なくとも、ギクシャクの一因にはなっています。このようなインフォームド・コンセントのダークサイドを顧慮することなく、「指針」にそう書いてあるから、と手続き的、形式的なコンプライアンスの遵守は、医者の魂を手続きに売り渡してしまっていることであり、ある意味、倫理に悖る態度と言えないでしょうか。事実、標準治療を比較する臨床研究などについては、インフォームド・コンセントは必要ないんじゃないか、なんて議論もアメリカでは起きています(Kim SYH, Miller FG. New England Journal of Medicine. 2014;370(8):769–72)。
倫理とは、他人に言われて、規則や手続きを踏襲すれば事足りるものではないと思います。むしろ、医療者一人一人が自らの魂から発露し、だれからも強制されたり監視されることなく、心の底から倫理的な精神をもって医療を行い、その振る舞いが十全に倫理的であることが大事なのだと思います。こう考えてみると、書式的な倫理指針を整備するということは、医療者の倫理的精神を堕落させ、「この指針を踏襲していればよいのだよね」と言わせてしまう意味で、逆説的に非倫理的な代物ですらあるのです。厄介ですね。
医療現場で診療する医者にとって、医療倫理は大事で厄介な問題です。これをどう扱うべきか。ぼくは考えました。「カントはこう言っている」「サンデルはこう書いている」といった、「お勉強」としての倫理学ではない、リアルな倫理を考えました。そして、考えた内容を一冊の本にまとめることにしました。
くしくも執筆中に東日本大震災が発生し、ぼくの魂は(多くの日本人同様)大きくこの震災に引きずられました。同じ頃、尊敬する医師であり医療人類学者であるポール・ファーマーの著作を翻訳する機会を得ました。2010年のハイチにおける大地震やルワンダの虐殺などと対峙するファーマーの記録でした。
ぼくはそのとき愕然としたのです。ぼくは東北の地震にこんなに魂を揺さぶられている。なのに、スマトラ沖の地震と続いて起きたバンダ・アチェの津波とか、四川の大地震とか、ハイチの地震やコレラの流行とか、ルワンダの虐殺に魂を揺さぶられていなかったのです。知識としては「そういうことが起きている」のは分かっていましたが、東北におけるそれのような魂の揺さぶりは起こらなかったのです。その事実にぼくは戦慄しました。
全ての医療倫理が、患者と病いを平等に扱うよう我々に要請しています。しかし、ぼくの魂は世の中の悲惨に平等に発動しないのです。
医療現場に即した医療倫理に関する論考は、こうして「ためらいのリアル医療倫理」(技術評論社)という本にまとまりました。リアルな医療倫理は、白黒はっきりするような、竹で割ったようなものではなく、むしろためらいを伴う、躊躇を伴うものなのではないか。我々は生命や患者を平等には扱えない。その魂は情的、時間的、空間的な距離と相関する。より近いものに魂が揺さぶられる。現に、2014年の現在、我々の魂は東北での震災の悲惨を忘れつつある。いや、ビビッドな記憶があまりに長く残っていれば、それは我々の魂を崩壊させてしまう。忘れてはいけない。けれども、忘れなければいけない。相反する、あるいは矛盾する概念を同時に飲み込まねばならない。自然に忘却していく我々の魂にときどき釘を刺すように、我々は「記念日」を作って思い出す。本書にもあるように、法事とは我々の祖先が作った実によくできたシステムだと思います。
その「不平等さ」に自覚的であり、そのような情けなさにためらいながら、それでも日常の医療活動を毎日細々と行っていくことこそ、医療現場での倫理的な振る舞いに若干近づく方法なのではないか、と(恐る恐る)考えたのです。残念ながら、『ためらいのリアル医療倫理』は医療界でほとんど話題にもならず、その考えは読者に十分に理解されたり、納得されたりしなかったようなのですが。
ぼくはその後も迷いました。医療現場では倫理的な問題が山積みです。これをどう扱ったものだろうか。我々は毎日決断をせねばならず、「問題先送り」はできません。診断について、治療について、意思決定を繰り返せねばなりません。
では、どうすればよいのか。
ぼくは考えました。こういうときは、対話が必要だ。他者との対話が。他者の言葉を聞いて、自分の考えや魂に揺さぶりをかけるのだ。
対話の相手は決まっていました。内田樹先生と鷲田清一先生です。両者ともに私に静かで豊かな言葉を与えてくれます。自分が思いもしなかった言葉をくださる方です。2011年の震災後、ぼくは内田先生、鷲田先生たちにお願いし、お金集めのためのチャリティー・シンポジウムを開催しました。そのときの体験から、「倫理についてお話を聞くなら、この二人だ」とぼくは確信していました(このときの模様は「有事対応コミュニケーション力」(技術評論社)にまとめられています)。
「予想通り」、お二人からはぼくが「想像もしなかった」言葉をたくさんいただきました。本書はこれをまとめたものです。まあ、構成からして「イワタが内田先生と鷲田先生に教わりにいく」という主旨で作った本ですので、著者は内田樹、鷲田清一、聞き手、イワタとすべきだと思います。しかし、ご両人のたっての希望で、ぼくの名前が著者名にあがることになりました。「これをイワタの本と呼ぶのはおかしいんじゃないか」というお叱りを受けるかもしれません。まあ、全くその通りだと思います。
医療の世界は、医療の世界の符丁に慣れ過ぎています。医者は記憶力がよくて、勉強家が多いですから、多くの人がヒポクラテスの誓いや「倫理指針」を暗記しています。しかし、そのような知識があるという点で止まってしまい、満足してしまうことも多いです。我々医者のインナーサークルの外から、我々が聞いたことがない言葉を聞く必要があるのだと思います。多くの医療者に本書を読んでいただけると幸いです。
患者についても、そうです。ぼくは患者というのはやはり医療の世界のインナーサークルにいるひとりのプレイヤーだと思っています。決してアウトサイダーではありませんし、あるべきでもないでしょう。そのインサイダーたる患者も、やはり「医療の話法」に慣れてしまい、根源的に考える機会はあまりないように思います。医療についていろいろ感じておいでであろう患者さんやその家族たちにも、本書はぜひ読んでいただきたいと思っています。
いつものように「はじめに」が長くなりました。お待たせしました。では本編をどうぞ。
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