出版社から献本いただいた。御礼申し上げます。
村上先生は闘う医師である。瀬棚町で予防医療を治療医療に優先させ、医療費を下げ、肺炎球菌ワクチンを公費に持ち込んでくださった。その功績のおかげで、千葉県鴨川市(亀田総合病院があるところ)でも、肺炎球菌ワクチンを公費提供できるようになった。神戸市もそうである。前例主義の日本の行政において、前例を作ってくださる村上先生のような存在は非常に貴重である。
本書は、その闘う村上先生の火が出るような舌鋒鋭い本である。批判の対象は様々だ。地方行政に、医療者に、そして患者にすら批判の矢が突き刺さる。
このような、怒る村上先生を感覚的に快く思わない人もいるだろう。そもそも、「医者は怒ってはダメ」という主張すらわりとよく聞く話なのだから。
ぼくは、すべての二元論を組み立てなおそうと試みている。ここでも、「怒るか、怒らないか」の二元論には意味が無いと思う。怒るべきときに怒り、そうでないときは怒らないという判断だけが大事なのだ。人間に刃物を突きつけるのは一般的には悪行だが、それはもちろん外科手術の正当性を否定はしない。手術が妥当かどうかは、対象患者が手術を必要としているか否か、その一点にかかっている。手術をすべきときに手術をするのが正しく、そうでないときに手術をするのは正しくない。それだけだ。「怒り」「闘い」も同様に扱われるべきである。そして、多くの場合において村上先生は正当な理由で正当な状況下で闘ってきた。多くの医師たちが尻込みするような状況下で、だ。闘った、という事実のみをもって闘わなかった人たちが村上先生を批判するのはしたがって、的外れだ。中島みゆきの「ファイト」、Mr. Childrenの「タガタメ」を引用するまでもなく、そうである。
村上先生の主張は二元論を否定する。高齢者は大切だが、醜悪だ。患者も大切だが、間違っている。日本の医療は優れているが、劣っている。こういうアンビバレンツが次々に展開されていく。夕張は破綻すべくして破綻した自治体で、住民全てが加害者である。被害者面してはいけない、というのが村上氏の主張である。
平川克美氏は、あるシンポジウムで「高齢者をバッシングするのはけしからん」と怒っていた。それもまた一面では真実だが、だからといって日本の高齢者がすべて気の毒な被害者であるというのもまた間違いだ。
高度成長の恩恵を享受し、一番金持ちで一番医療費を使っている世代が、貧乏な若い世代を搾取している、というのが今の日本の構図ではないでしょうか。「支え合い」という美辞麗句と、「命にかかわる」「年寄りに早く死ねというのか」という感情論で巧みにごまかしていますが、その裏には、次のようなエゴイズムが見え隠れしています。
「自分は何の努力もしないけど、いい生活はしたい!」
「税金を払っているのだから、健康は国の医療で何とかしろ」
「高度で専門的な医療を何時でも何処でも受けられるのは我々の権利だ!」
「そのために他の人がどうなろうが知ったことか!」
日本人はいつから次の世代のことを考えなくなったのでしょうか。
日本人の恥の文化はどこへ行ったのでしょうか。(63頁)
ここで展開されるのは高齢者批判ではない。高齢者を大切にしつつ、かつ批判する。高齢者を善か悪かで審議する、そのような二元論そのものを否定し、乗り越える弁証論から村上氏の炎の文章を読み取ることが大切なのだとぼくは思う。批判の炎は、意外にも(?)理性の衣をまとっていることが理解できるはずだ。
日本の医療は優れているが、劣っている。この理解から、次の一歩が始まるはずだ。闘いや怒りはネガティブなコンポーネントだが、必要なコンポーネントだ。矛盾を飲み込む成熟を持ち、我々の幼児性に決別し、真に勇気ある闘士として生きたいのである。村上先生は、コミュニストでもリバタリアンでもない。真摯で誠実で、二元論を受け入れないヒーラー、かつ戦士だ。もちろん我々の同志なのだ。
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