ちょっと今回はスピンオフ。医療を離れて性教育の話をします。
もちろん、医療と性教育は完全に「別物」なのではありません。性行為にはいくつかのリスクを伴います。妊娠とその合併症のリスク(まあ、妊娠を「リスク」ととるか「慶賀すること」ととるかは、文脈依存的ですが)、感染症のリスク、あるいは(これも文脈依存的ですが)精神的なトラウマなどのリスクも。こうしたリスクは、すべて医療の守備範囲内なのです。性教育は医療と密接に関わっているといえましょう。
でも、日本の性教育はイデオロギーでグンニャリ歪んじゃっています。なんか、嫌だなあ。
団塊世代のオジサンたちは「寝た子を起こすな」と積極的な性教育に嫌悪を示し、牽制をかけようとします。それに反発する人たちは、「ちゃんと教えなければいけない」と逆の極端に走ります。一種の二元論です。
逆の極端に走る例として「性器の正しい名前を教える」というものがあります。男性器も女性器も、直接言及するのを避ける傾向にありますが、そういうのがそもそもよくない。それは昔の教育だ。タブー視している、というのです。だから、体の部分について全ての名称を教えなければならない、というのです。
つまんないなあ、とぼくは思います。
性器の名前を直言しないのは、単なるタブー視だけではありません。
だって、そもそもセックスの中にはセクシーさ、楽しさ、喜び、愛情という概念がきちんと内包されているからです。そして、直截さはそのセクシーさ、楽しさ、喜び、愛情の概念を損なってしまうのです。
女性の性器や乳房が切り取られて、まな板の上にボン、っと載せられていて、そんなものにドキドキしますか?別の意味でドキドキ(ビクビク)するかもしれませんが。男性器においても然り。冷静に考えたら、男性器も女性器も、それ単体では単にグロテスクで気持ち悪いものだと思いませんか。少なくとも、ぼくはそう思う。
そこにセクシーさ、楽しさ、喜び、愛を感じさせるのは露骨な開示ではありません。微妙なファンタジーです。ファンタジーは、じらしであり、隠しです。露骨な露出が幻滅であり、「チラリ」にドキドキするのは、そのためです。
枕草子に紹介されている、
あしひきの山井の水は氷れるを いかなるひもの解くるなるらむ
という歌は、「氷が溶ける」と「紐が解ける」を掛けていると説明しました。そして、それは衣服の紐で、「体を許す」という意味でした。
日本においてセックスがタブー視されてきたのはキリスト教が入ってきた明治維新の後のことで、それまでは、日本社会は実に性にはおおらかでした。お風呂の混浴はあり、同性愛も自由、祭りのあとは集団でまぐわい、夜這いも「常識」だったわけです。で、平安時代の性もやはりおおらかだったのですが、それでも言葉で直接言及するのは憚られました。女性は顔を見せることすらしない、今のイスラム教的な感じでした。で、そのじらし、隠しがムードを盛り上げたわけです。一種の演出なのです。
日本の性教育では、コンドームの正しいはめ方とか、男女の骨盤部位の輪切りの説明とか、いかにも物理的な内容しか教えません(ぼくが知る限り)。より進歩派の人(?)はこれに加えて、モーニングアフターピルの話もするかもしれませんが、それもやはり物理です。
でも、セックスにおいてそのドキドキとか愛情とか、楽しさとか喜びが、「あたかもついてまわらないか」のように振る舞うのは、それこそ「タブー視」なのではないでしょうか。そういうこともコミにして、セックスを教えなくて、なにが性教育なのでしょうか。
性器の名前を露骨に教えて、性を教えたつもりになっているのは、教育者の驕りです。それは顕わにすることで、逆に大事なものを損なってしまっているのです。顕わにしないことで、逆に伝える方法ってあるのです。そのような微細な方法は、すでに述べた「ウソ」や「インフォームド・コンセント」の問題ともパラレルな問題です。だから、ぼくはそういう「つまらないこと」は、やりたくありません。
このようなアクロバティックな問題は、「それ」と簡単に言い当てることのできない微妙な微細な問題です。でも、プロであれば、だからこそそういう微妙で微細な言葉を使いこなさねばならない。そうぼくは思うのです。
とはいえ!
では、いったい、性教育で何を教えればよいのでしょうか。
ぼくは、まず「人を愛する」ことから始めます。
自分を上手に愛せないで苦しむ人は多いです。そういう人に自己肯定感を提供するのは、わりと多くのプログラムの提供するところです。
でも、他者を上手に愛せない人も、やはり多いようにぼくには思えます。自分を大切にする前に、そちらを優先させることのほうが大事なのだとぼくは思います。
普通の性教育とは、「自分について教える」教育です。でも、ぼくは自分の話ではなく、他者の、相手の話をしたい。
ぼくの意見では、性教育とは、つまるところ他者を愛することを学ぶことだ。
自己に完結せず、他者との関係性を築くことを、特別な関係性を築くことを学ぶことだとぼくは思います。その他者への特別な配慮の方法論が、妊娠やら感染症やら暴力の話へと派生していきます。
他者を愛すること。他者に配慮すること。そこから逆算して、望まない妊娠、望まない感染症、望まないセックス、望まないあれやこれやに対する気遣いの話がでてきます。あとは、単なる手段の問題です。コンドームもピルも手段です。ここでも手段が目的を凌駕してしまっているのです。
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